食事のエロティシズムについて

赤いきつねのcmが炎上した。
女性が髪をかき上げてうどんをすする姿が煽情的で、過度に性を強調しているものと批判されている。
表現として実際に性的なものなのかや、それが広告として有効か否かなどについては本題ではない。
感じ方は個人やその人の属する集団の文化次第で、作者の意図とは独立に生じるし、無名に勝る悪名を得る必要はない程度のブランド力は既に持っているだろう。こんなところかな。

エロス

今回したいのは「食事ってそもそもエロくね?」という話だ。
人がヒトとして生きていることの象徴だし、死たるタナトスに対置されるのが「エロス」なんだから、モノを食べることがエロくないはずがない。
藤子・F・不二雄による短編漫画「気楽に殺ろうよ」の世界では、性欲に代わって食欲こそが隠匿されるべきものとされている。種の保存と繁栄という全体の利益に適う性欲と比べて、食欲というのは個体の維持だけのためのものであり、独善的で加害性の大きいものであることが根拠だ。家族であっても食事の場を共にはせず、トイレのような個室で食べるのだから面白い。
習慣の差には違和感を覚えるものの、食欲の後ろめたさは分からなくもない。性欲との比較はまた別の話だ。
生きるためにせざるを得ない「食事」という行為には、あけすけにするのが憚られるような何かがある。それが「エロス」なのではないか。古くは「穢れ」なんていうふうにも言われていたかもしれない。「穢」に米を意味する禾偏がついているのは関係あったりするのだろうか。
コロナ禍以来、マスクによって口元を隠すことが習慣化され、人によってはマスクのパンツ化が起きているとかなんとか。ますます食事の妖艶さが増しているのかもしれない。

団らんと会食

実際には我々は食事を隠してはいない。知己から赤の他人まで、誰とでも食事を共にし得るし、それを恥ずかしく思うこともない。
我々は摂食のエロさを覆い隠す術を持っているからだ。
カジュアルな団らんの場においては、談笑がその役割を担う。にこやかに会話を繰り広げながら食べることで、モノを食べるというヒトの本性から意識を逸らしている。目の前の相手を、ヒトとしてではなく、人として扱うのだ。
カジュアルな会食の場においてはマナーによって隠蔽する。「かくかくしかじかのマナーに則った食事は、高貴で、上品で、清潔なものだ」なんて、素直に考えればでっち上げのごまかしでしかない。そのマナーの理由は「そういうものだから」以外の説明を与えられない。勿論テーブルマナーやドレスコードには、排他性を無視しても一定の文化的価値があるとは思うよ。

民藝としての食事

料理も一種の芸術であると、『美味しいとは何か』(源河亨,中公新書)にある。主観的な要素と客観的な要素を併せ持つ美意識によって評価される美味しさは、芸術に対する感性と相違ないとかなんとか。
そういう料理の芸術性は、いわゆる民藝に近いものだろう。民藝とは、日常の生活に根差した健全な美しさが宿る、名もなき職人らの手仕事による道具のことを指す。大量生産による物質的な豊かさに留まらない、よりよい生活のために新しい美の見方が提示されている。
日々の、エロティックで、後ろめたい食事を、調理の技によって飾り立て、芸術へと昇華させる。絵画や彫像などの典型的な芸術も、ヌードのようなド直球の性を芸術に変えている。

ひとり飯

ひとりで黙々と飯をかきこむ時には、談笑やマナーは介在しない。丁寧な調理を毎回できるわけでもないから、芸術だからという言い訳も通用しない。
生きることの生々しさを何も隠してはくれないのだ。
享楽のためではなく、ただそうせざるを得ないから食べる。それはまるで性欲を解消するためだけの自慰行為のようなもので、より一層の隠匿が求められる。性に奔放な人も、性交ならともかく自慰の話は他人にはあまりしないのではないだろうか。
ひとり家でカップうどんをすするその姿は、飾り立てられていない生のための食事であり、やむを得ず食べる裸の食事だ。そんな姿が隠し撮りされているかのようなcmは、エロティックであるといって差し支えないだろう。

ドカ食いと高級料理

料理を民藝ではなく典型的な芸術にすることで、徹底的にエロさを打ち消すための方法を考えてみよう。生きるためのパンではなく、飾るためのバラとしての食事とはいかなるものか。
一つは、生きるために必要以上の食事をとること、すなわちドカ食いである。食物連鎖の暴力性はともかく、自身の生に執着する浅ましさからは解き放たれるだろう。
ただし過食症のような強迫的なドカ食いは、「生きるためにせざるを得ないこと」の領域から脱していないので、エロいままだ。
そのエロさがあるからこそ、もちづきさんには魅力があるのだろう。

ドカ食いダイスキ!もちづきさん(まるよのかもめ)

もう一つの方法は高級料理だ。
お高い店ほど量が少ないのは常々疑問に思っている。量を少なくすることで丁寧に味わうようになるとか、盛り付けを美しくするとか、希少性を強調するとか、いろんな解釈が立てられるが、ここでは「不必要にする」という説を提唱する。
嗦丟(スオディウ)という中国の郷土料理がある。
石を香辛料と共に炒めるという料理だ。香辛料を加熱してその風味を引き出し、温度を保つために石を一緒に炒めるのだとかなんとか。
栄養はなく、単に香りを味わうためだけの料理である。

スオディウ

これは紛れもなく生存とは無関係な「バラ」なのではないだろうか。
高級料理の量が少ないのもこの系列で、生きるための食事という意味をなるべく剥ぎ取るためだと考える。

せざるを得ないこと

生きるために必要だからという理由を完全に除外した、純粋な趣味というのは存在するのだろうか。不必要なバラだと一蹴した芸術も、それを作る芸術家たち本人にとっては、金を稼ぐ術である以上に「そうせざるを得ないこと」なのではないだろうか。どんな趣味だって、それを趣味とする本人には切実な欲求があって興じていることがほとんどだ。必要ないならやめちゃえよと言われて、一切の抵抗なくやめる人がどれだけいるだろうか。
生けとし生けるもの、みんな違ってみんなエロい。
飯食いながら生きていこうな。


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