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日本語教師日記126.さよなら教室ありがとう(1)発端

私が、おばさんになるまで住んでいた東京を離れたのは、2011年4月。
嫌がって泣いていた娘たちが、4月から中1と中3という
中途半端な時期のことでした。

引っ越しのタイミングが3月11日の震災の後だったため、名古屋の人たちからは、放射能を避けて転居してきたと思われがちでしたが、違います。
偶然でした。
夫の転勤のためにやってきたのです。

当たり前ですが、友達0、仕事やコネクション0、土地勘0、やることない。
ないないづくしの例大祭でした。
趣味のことも全部やめ、劇場とコンサート通いも、ほぼなくなりました。
(これは「名古屋飛ばし」のせいです)

年取ってから引っ越すと大変です。
ママ友もできませんし、町内会は回覧板がたまに回ってくるだけ。

咳をしても一人(種田山頭火)

まさにその境地でした。
え〜ん、思い出しても辛い! 😂

最初は張り切って、あちこち行きました。
いろんな博物館や美術館、大須商店街やら栄やら。
伏見ミリオン座を見つけたときは嬉しかったなぁ。

でもね、一人だと限界がありましたね。
無意識に、
(寂しいからって、つまらないからって、負けてはいけない)
と思ってしまって、いつも力んでいるか、緊張していましたね。

懐かしいあの、一人相撲の日々。

・・・二度とごめんですう〜。


もちろん、「先生とスカイプで授業を続けたい」と言ってくれた、
それまでの生徒も少数はいました。
ありがたく、レッスンさせてもらいました。

当時は、オンラインのレッスンははほぼ、スカイプ・レッスンぐらいしか知られていませんでして、オンラインレッスンといえば、「スカイプレッスン」と呼ばれていて、ごく少数のパイオニアのオンラインレッスンの会社も、「スカイプレッスン」とサイトに書いていました。

でも私はやはり、対面で教えたいと思っていました。

私の生徒の中で最年長で、かつ、レッスン継続期間も最長の、セミリタイアした大学教授のSさんに出会ったのは、名古屋に来てから10ヶ月もしたころでした。
もう近所で畑もやっていたし、通いやすくなった郡上八幡にたびたび踊りに行ったりしてはいましたが、やはり対面で教えたいという気持ちは強かったです。
あと、生身の人に会いたいというか。

Sさんは、今もお世話になっている日本語教師と生徒のマッチングのエージェントから紹介された人で、家も近かったので、通ってくれることになりました。
最初1、2回は自宅のリビングで授業を行いましたが、やっぱり、生活のかおりがしますし、家族の立てる物音などもあり、申し訳なく思いました。

そこで、駅前の不動産屋さんに行って、近所のアパートを紹介してもらった中に、見たことのあるような、ないような、建物の写真が載っているチラシがありました。
見たことがあるように思ったのも道理、それは我が家の目の前にある、ワンルームアパートでした。

その時は、仕事場と家とが近すぎると、気持ちが切り替わらないのではないかと考えたのですが、そこが一番気に入りましたので、結局借りました。
玄関からよいしょと、ちゃんと上がりがまちがありまして、すぐにユニットバス、室内洗濯機置き場、キチネット。
その向こうの引き戸を開けると8畳間、南向きで、ベランダからは明るい日差しが入ります。

これで家賃3万円て、すごくないですか?
こんなに安いのに、私は値切ってしまいました。
28000円にしてもらいました。

エアコンが壊れるとすぐに新品を入れてくれるし、
1階だったのですが、どこからか結露が生じ、天井や壁が濡れたら、
即、直してくれましたっけ。

これで、一人暮らしの経験のない私に、初めて、自分だけのスペースができたのでした。

子供がいたので絶対無理だった、白いカーテンを掛けました。
自分だけの本のために、中型の大きめの、扉のついた本箱を買いました。
帰省のときにわざわざ調布のハンモック屋さんに行ってハンモックを買い、
壁にフックはつけられないので、フック付きの柱を作ってもらい、工業用の強力突っ張り棒で壁に押し付けて、ハンモックを吊るしました。
あのハンモックで、暇さえあれば、すぐ昼寝をしていました。
私の人生で、一番よく寝ていた時期です。

友達や生徒たちが、名古屋に遊びに来てくれたときに泊まってくれるので、
押し入れには布団が二組、いつも入っていました。

でも、職場ですので、キチネットにあるのは飲み物の用意のみで、
一度も料理はしたことがないですし、もちろん洗濯機もありません。

近所のプリスクールの先生たちに出会えましたので、グループレッスンの途切れることはありませんでした。

その教室を、「閉じることにしたのよ」と伝えた人たちからは、

え〜、寂しい。
泊めてもらったあの教室が?
なくなっちゃうの?

と言われました。

はい、クローズを決めたのは、3月12日のことでした。


続きますね。


(写真は、自分達で運び出せないテーブルと本棚だけになった教室です)

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ガラパゴス諸島から来た日本語教師 tamadoca
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