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エッセイ570. ダスト・イン・ザ・ウインド

今日は朝から実家の片付けに行って来ました。
2年前に転勤で地元に戻って以来、実家に荷物を預けっぱなしでした。そのうちに、と思っていながら手をつけていなかったのですが、姉もとうとう父の残した大量の本や、玉石混交の焼き物や掛け軸などの整理にかかったので、手伝いがてら、車に積めるものから引き取ろうと思ったわけです。

挑む相手は、まず本です。
売り物にならない俳句の機関誌、国宝の旅的なムック本は、夫と姉と2時間かかって紐でくくりました。古本を捨てられる日に、姉が少しずつゴミの集積所へ運べるようにです。一回読んで満足したと思われる大判のムック本は、父がまだ動けるうちにどんどん教室に運び込んだわけです。多分、2度は読んでいませんね。でも本や雑誌が捨てられないというのはわかります。神田神保町のよく知っている古書店のサイトに、値がつかないものも引き取りますとあったので、お縋りしたいです。

それから焼き物です。やたらあります。箱書きがあると売れる時もたまにはあるようなので、買取業者さんに来てもらうことになりそうです。箱と中身のマッチングが難しそうです。筆で書かれた字が全然読めません。プロの人なら読めると思います。父に、焼き物の裏とその箱に、番号シールでも貼っておいて欲しかったです。
しかし、いくらにもならないのだろうなと思っています。
引き取ってもらえるのならお願いしたい、という切なる希望です。

書道関係の物も多いです。落款用の石がたくさん。筆、硯、さまざまな和紙。書道が好きな父が長年愛用していましたが、これも引き取ってもらえるのなら、もうお金をお支払いしたいぐらいです。紙は、申し訳なかったけれども父がほぼ普通の活動ができなくなって長く、ずっと放置されていたので日焼けしたりしています。ごめん、ゴミ袋行きでした。

扇風機2、ヒーター2、プリンタ2、ついたて、屏風、カビだらけの椅子、年季だけ入ってしまった机、本箱もたくさん。そこに入りきれなかった本が溢れかえっています。埃を取らないと古書やさんに来てもらえないのかなと思うと、正直うんざりです。

壁中に、恐るべき数の絵馬が下げてあります。
あれ、絵馬って、願いを書いて奉納するものだったのでは。
父はコレクターだったのでしょうね。

最後まで悩みそうなのは、そろばん塾の看板と、全珠連の資格証の立派な、でも古いもの。父が80歳まで営んだそろばん塾で、一家は食べていたわけで、感謝の気持ちがあり、ゴミに出せないでしょう。

家族のアルバム。
私の小さい時のものがたくさんあります。幅3mのスチールの本棚に床から天井まであります。子供がときどき見て笑っているので、まあ、しばらくは置いておくのかな。見たいものだけ、写真を綺麗にコピーしてくれるアプリがありますから、そうしておいてどんどん捨てるのでしょうけれど、土日なく仕事のある私は、そういうことをこれからやっていくのかいなと思うと、もう泣きたい。

額装の絵や書もたくさんあります。
熊谷守一さんの版画は、何枚中の何枚目に刷られたという書き込みがあります。俳人の金子兜太の書とか、好きな人は好きそうな須田剋太の版画も何枚か。欲しい人はいない気がします。額が大きくてどうしたら良いのやら。

埃とカビを吸い込みながら(嫌だよ〜)、粗大ごみに出すものも、紐で縛ったり、養生テープでまとめたりして、教室の入り口近くまで運びました。

その合間に箱の海から、緑のガムテープで閉じた箱が出てきます。
これは、同じ日に名古屋から新しいアパートへ運んでもらうのは黄色、実家へ運んでもらうのは緑のテープとしたためです。私の今の住まいは和室がないので、大量の荷物の頼もしい味方、押入れと天袋がありません。無理に畳を入れた洋室で布団を敷いて寝ていますが、押し入れがないので、たたんだ布団は座卓の上に重ねています。この夏、畳がかびたので、すごく警戒しています。

二人で住むには十分ですが、写真のアルバムや、娘たちが家を離れるときに
よろしくぅ!
捨てちゃ嫌だかんね?
と、置いていってしまった、卒業アルバムだの、大量の団扇だの(次女がKーpopの追いかけをしていた時代の遺産)、おそらく日本に戻って住むことは一生なさろうな長女の大量の本や服などは、さすがに狭い家に置いておけません。

おそらく、父の持ち物をほとんど断捨離したあとに、申し訳ないけれども置かせてもらうことになるでしょう。この家より広い家に住む可能性は、限りなく0だからです。

子供の成長に合わせ、喜ぶかと、山に海に連れていった両親。
コダックかフジのフィルムを入れたカメラでたくさん写真を撮りました。
その日に使いそうな枚数、12枚撮り、24枚か、36枚撮りかで悩んだのでしょう。撮り終わったら、今はもうない同時プリントに出し、1週間待って出来上がったものを受け取り、写真用セメダインの匂いをぷんぷんさせながら、一枚一枚貼っていった。初期の頃は、写真の四隅を留める3角の用紙を買って、本当に一枚一枚貼っていきました。
次は、ぴー、とはがすフィルムの下に出てくるベタベタした台紙に写真を、配置を考えながら置き、ぶくぶくにならないように丁寧にフィルムを戻しました。
フエルアルバム、という、ページを増やせるものがカッコよかった。
ベルベットの厚い表紙に、金色に輝くリングのものもありました。
今みたいに何も心配しないで写真を撮りまくり、私みたいに間違えて、
ジーーーーー!
あっしまった、同じ写真を20枚も!
なんていうことはありえなかった。

幕末から明治の銀版写真、首を支えるもので後ろから人を固定して、何十分も待たせた時代、写真はどんなに貴重で、意味の深いものだったのでしょうね。

何十年も丁寧に保管されても、撮った人、楽しんだ人が消えていく時、写真も一緒にその役割を終えるのでしょう。

本当に、全ては忘却と塵の中に。

なんて思っていたら、どこかの隅から、小3だった長女がじじばばにあげたか、見せたなり忘れて帰ってしまったらしい、工作が出てきました。

何度も見てくれたのかしら。
しみじみしました。


夏休みの自由けんきゅうだそうです。
そう言えばしばらく、母娘で紙粘土で食べ物を作るのに凝っていたことがありましたっけ。
左上からおにぎりとたくあん・カスタードプリン・ハムエッグ
ガーリックトースト・ハンバーグ・大トロと卵のお寿司



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ガラパゴス諸島から来た日本語教師 tamadoca
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