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2024/05/13 『あなたの写真を拝見します』より その4
※最後の抜粋なので、特に感銘を受けた部分を太字にしておくことにする
写真における構図とは
カメラは道具である。道具以外のなにものでもない。だから「カメラの基本」というのは、正確には「カメラの基本操作」のことである。道具としての基本操作というわけだから、その下に「露出、ピント」と来ることに問題はない。けれども「構図」はあくまでも表現上の問題であり、道具の基本操作とは別の話である。ましてや写真の基本でもない。
構図はカメラの基本でも写真の基本でももなく、表現の基本
水平であるとか、被写体の比率であるとか、無駄なものを排除するとか、そういう類のことを強要することは、個々の生理的感覚を否定する暴力行為と同じである。構図というのは写真にとって人格と同じである。
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「私にしかできない」という錯覚と自己陶酔
すべてが平均化している現在、今や、技法を駆使する者において、その技法による「私にしかできない写真」という心地よい錯覚と自己陶酔は、その人間のアイデンティティを代替りする役にまで高められている。自己の無い人間にとって技術は、自負と自尊心という安手のアイデンティティを与えてくれるのである。
「私の写真」を生み出す
アイデンティティとは「私の写真」を生み出せることであり、「私にしかできない写真」を作ることではないからだ。
問い続ける
安友さんは講評を生業としている。講評とは問うことだと、安友さんは言う。そして、講評される側は、その問いに答えを発しながら今の自分と本質的な自分の矛盾に自分自身で気がついてゆく。
ひとつの答えが出たら、そこらからさらに新たな問いが生まれる。あらゆるものはその繰り返しだと私も思う。この世の中に結論はない。
写真は、見る人に想起を促すメディアである
安友さんは、こうも言っている
写真は結論ではない。状態である。そこに写されているものは、あるものの状態と、それを写した作家の心の状態である。写真は、そこに写しだされているものの状態をそのまま「見る」ということを通じ、見る人のなんらかの想起を促すメディアなのである。
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