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トランスジェンダリズムは左翼による性差別

本日は左翼フェミニストのケイリー・ウォーカー女史の記事から読んでみよう。ウォーカーは「男らしさでなければ何をもって男とするのか?女らしさでなければ何をもって女とするのか?」と質問を投げかける。もっとわかりやすく日本語的に書くならば、「男らしくない男は男ではないのか?女らしくない女は女ではないのか?」だろう。

この質問はモダンフェミニスト説から出たものである。男らしさとか女らしさを生得的な性別と離して考えてこそ、社会が期待する性的役割から女性たちは解放されるからである。

男は男らしくとか女は女らしくという伝統的な考えは元来右翼保守の思想だった。現代の西洋はこの右翼の差別的考えをようやく乗り越えて性別(sex)と性的役割(gender)は分けて考えるべきというフェミニスト思想が主となってきていた。ところが今やこの考えは新しい脅威にさらされている。そしてそれは左翼から来ているのだ。

この左からの性差別・セクシズムは昨今のアイデンティティーポリティクスと呼ばれるものから来る。アイデンティティーポリティクスとは特定の属性に所属する者は特定の行動を取らなければならないというもので、左翼リベラルが長い間闘い勝ちとってきたはずの個人の自由表現を否定するきわめて反リベラルな思想である。

この自分が自分をどう見るか、そして周りからどう見られるか、という個人の自認・アイデンティティーにこだわり過ぎた結果、新しい左翼はフェミニズム以前の窮屈な性別役割に固執するようになってしまった。そうすることによって現代の社会正義運動は図らずも古臭い伝統的な右翼の姿勢とそっくりになってしまったのである。 皮肉なことに性差別から解き放たれることを求めていたはずの人々が自分にラベルをはることによって非常に狭い意味での性別役割・ジェンダーを人々に押し付けるようになってしまったのだ。本来であるならばリベラルは元来の性役割の枠に挑戦すべきであるにもかかわらずである。これは到底進歩とは言えない。

ウォーカーは現在20代半ば。離婚して共同親権を持った両親の間を行ったり来たりして育った。母親といる時は好き勝手に男の子みたいな恰好をし男の子のものとされていた趣味も好きだった。父親は女の子は淑女らしくしろというタイプの人だったので、女の子っぽいドレスも着たし、それなりに振る舞った。そのおかげで彼女は男の子っぽい活動も女の子っぽい活動も両方試すことが出来た。ウォーカーは女性とも男性ともつきあったが、今流行の性別に即していないと言う理由で自分のことをノンバイナリーだの性別流動だのとは考えなかった。なぜなら自分のそうした行為は自分が女性であることとは無関係だと思ったからだ。性別役割というのはあくまで社会構築であると確信した。

今日彼女は南オレゴン州の amBi.orgという世界最大のバイセクシュアルクラブの会長をしている。プライドパレードなどにも参加しクィア界隈の関係者とのネットワークも広がった。しかしここで彼女は初めて過激なトランスジェンダー概念に遭遇した。

とあるミーティングでLGBT界隈ではよくあるように、彼女は自分の名前、代名詞、そして性指向を「ケイリー、彼女/彼女の、バイ」と自己紹介した。ところが驚いたことに、ある参加者はケイリーの性自認を訂正したのである。ケイリーは時々女性っぽい服装をするが、その時は男性っぽい服装をしていたので、ケイリーはノンバイナリーかパンジェンダーなはずだというのである。最近数回しか会ったことのない人に決めつけられるのもおかしなものだ。にもかかわらずこの人はケイリーに性別は二元ではないことを延々と説教し、ケイリーがバイセクシュアルであるはずはないと決めつけた。そして寛大にも彼らはもしケイリーが自分の無知を認めて今後パンセクシュアルと自認するなら許すという態度を取った。しかしケイリーは誰かが助け船を出してくれるのではと暫く口をつぐんだが、誰も助けてくれなかった。

不幸なことにケイリーはこのようなジェンダーポリーシング(性自認取り締まり)を何回も体験した。言うまでもないがこれは右翼が集まる場ではない。フェミニストの立場から言って彼らが押し付ける性別役割による性差別・セクシズムはそれまで右翼がやって来たものと全く同じに見える。ただ少し違うのは彼らのやり方は生物学的性を無視して性自認のみを尊重するというものだ。このやり方は先代のフェミニズムからはかけ離れたものだ。 フェミニストたちはそんな狭い女性枠にはまることを拒否してきたのに、今の左翼はこの枠にきちんと嵌らない人を別な名前で呼ぶことによって性別役割を押し付けてくるのである。

個人のアイデンティティに対する権利は、性差別を強化することを条件とすべきではない。クィアコミュニティがこの事実に正面から立ち向かわなければ、セックスとジェンダーを区別するフェミニストの理想を信じる女性たちと、明らかにそうでない人達の間で無意味な内紛が起きるだろう。フェミニストたちはフェミニストとしてトランスを受け入れる方法を考えるべきなのであり、フェミニズムを再定義して、これまで戦ってきたはずの性差別を許容することであってはならない。

そこで最初の「男らしくない男は男ではないのか、女らしくない女は女ではないのか?」という質問に戻るわけだが、この質問はトランス界隈にとって独特な挑戦となるだろう。何故かと言えば性別役割という性別のステレオタイプがなかったとしたら、何をもってして自分をトランスだと呼べるのかと言う質問を彼らは自分自身に問いかけなければならないからだ。

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私(カカシ)もずっと思っていたのだが、LGBまでは性指向だが、T以降は個人の個性である。何故裁縫や料理やピンクの好きな男性やバイクや車が好きな女性ではいけないのか。何故自分や他人の精神状態にいちいち細かいラベルを張らなければならないのか。そして自分をリベラルだと言う人に限ってこの窮屈な枠のなかに自分や他人を無理やり押し込めようとするのは何故なのだろう?

私はフェミニストではないので、性別役割を右翼保守が押し付けて来たと言うウォーカーの考えには賛成できない。そして右翼だけが性差別をしてきたと言う考えにも全く同意しない。はっきり言って私はトランスジェンダリズムは元々性差別意識を持っていた左翼男性たちが女性を弾圧しコントロールするための良い口実にしているだけだと思う。そうでなければ「女性に話させろ」という集会や「女性空間を守ろう」という人達を左翼の男性達が暴力的に阻止しようとすることが説明できないからである。

フェミニストたちが女性自認の男が女性の場所やスポーツを侵略してくることにも憤りを感じるのは当然だが、女性であるのに男性を自認する女たちにはもっと怒るべきだろう。なぜなら女性でありながら女性の役割にこだわらずに社会が男性に期待する行為をとれる自由こそ究極なフェミニズムであるはずで、それが出来るなら男性に違いないと言う考えこそ女性に対しうるセクシズムだからである。







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