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李琴峰氏のカムアウトに思うこと

作家の李琴峰氏がトランスジェンダーであることをカムアウトした。「トランスジェンダー追悼の日、アウティングされ声明」より。強調は本文のまま。
***カカシ注:このノートの記事は11月21日現在ノート運営側から削除された。李氏にはその理由はわからないとのこと。それでフェイスブックの方に移したそうだ。***

私・李琴峰は、レズビアンです。デビュー以来、私はずっとLGBTQ+の物語を書いてきたし、同性婚法制化などについても積極的に支持しており、プライドパレードにもほぼ毎年参加しています。これらはすでに公開されている情報であり、紛れもなく真実です。
 しかし今日、この「トランスジェンダー追悼の日」に、私はもう一つカミングアウトを済ませておきたい――私・李琴峰は、同時に、トランスジェンダーでもあります。

李琴峰

誰も驚かない李氏のカムアウト宣言

李氏の話をしばらく追ってきた人なら、このカムアウトは全く驚きでもなんでもない。李氏が「生まれた時に男性として登録」され成人してから法律上の性を女性に変えたことはすでに前々から噂されていたことであり、李氏の生まれや出身校や本名及び大学時代に使っていた男名のペンネームを暴露したメディアもあったので、ちょっと興味のある人なら彼がトランスジョセーであることを知らなかった人はいないだろう。

トランスジェンダー活動家の左翼作家がカムアウトしたからといって特に騒ぎ立てるほどのことではない。ただ李氏の場合、李氏がこれまで自分のことをトランスジェンダーだと言った人々に対して放ってきた激しい批判と、これまで起こしてきた(現在も進行中の)数々の訴訟という問題がある。李氏はこれまでに台湾と日本双方で10人近い一般人(大半が女性)を名誉棄損で訴えており、少なくとも二件で勝訴しているのである。

誰でも不思議に思うことだが、トランスジェンダーの人のことをトランスジェンダーだと言うことのどこが名誉棄損なのだろうか。そして、このように自分からカムアウトした今、これまでの訴訟はいったいなんだったのだろう?

もともと私は李氏の訴訟の意義が理解できなかった。台湾や日本では事実であることは弁護にならないらしいが、トランスジェンダーであると言われたことで相手を訴えたとしたら、裁判で自分がトランスジェンダーかそうでないかをはっきりさせる必要があるのではないか?だがそんなことをしたら、もし自分が本当にトランスジェンダーだった場合、これは藪蛇ではないのだろうかと不思議だったのである。

思うに李氏の裁判は相手が自分をトランスジェンダーだと言ったことが論点なのではなく、相手が執拗に誹謗中傷を繰り返したとか、盗作をしたと嘘をついたとか、プライバシーを侵害したといったもので、実際李氏がトランスジェンダーかどうかは関係なかったのではないだろうか。そのうえで、これがトランスジェンダーを巡る裁判だったということにしておいて、自分をトランスジェンダーだと「誹謗中傷」した人を訴えて勝てれば(いや、勝てなくても)今後訴訟を盾に自分をトランスジェンダーだと言って批判するひとたちを黙らせる効果はあるだろう。もしかすると最初から李氏の狙いはそこだったのかもしれない。

だが私がずっと疑問に思ってきたことは、何故李氏はこんなにも懸命に自分がトランスジェンダーであることを隠そうとしてきたのかということだ。李氏は熱心なトランスジェンダー活動家であり台湾のトランス活動団体とも親密な関係にある。明らかに李氏はトランスジェンダーであることが道義的に悪いことであるとは思っていない。だったら当事者として活動をした方が効果があるのではないか?というより当事者であることを隠してトランス活動をする方が、かえって他のオープンにトランスジェンダーな人に対して失礼だし、当事者でない人に対しても自らがトランスであることを認められない人がトランスジェンダーを差別すべきではないと訴えても説得力に欠ける。

李氏は自分が長い間カムアウトしなかった理由は、自分が台湾の保守的な村出身であり、まだまだトランスジェンダーへの偏見が根強いため、自分がカムアウトなどしたら両親や祖父母に迷惑がかかるからだと言っている。また自分が男として生まれ男として育った時代は自分にとってはつらい過去なので思い出したくないということもあったのだという。

だから自分の過去を知る人が居ない日本に逃げてきたのに、台湾から執拗に追いかけて嫌がらせをする人が居たせいで、自分はやむなくカムアウトせざるおえなくなったのだそうだ。

レズビアンとトランスジョセーを同時に名乗ることは出来ない

はっきり言って小説家がレズビアンだろうがトランスジョセーだろうが読者にとってはどうでもいいことだ。小説が面白ければそれでいいのだ。それなのにどうして人々は李氏がトランスジョセーであることにそんなに拘るのであろうか?別にいいじゃないか、放っておいてあげれば。

だが問題なのは、李氏自身が自分の性別や性指向をいちいちアピールしてきたことにある。

例えば李氏はレズビアンを自称している。私は読んだこともないしこれからも読む気もさらさらないが、李氏の小説には反自叙伝と称するレズビアン少女の恋愛の話が出てくるという。小説の主人公は女子高で同級生の女子に恋をするという話らしい。別に男性がレズビアン小説を書いてはいけないというわけではない。女性漫画家によるBL作品なんていくらでもある。ただこの小説は李氏の体験をもとにしたものだと宣伝されていたことに問題がある。李氏は大学まで男として育ち女学校になど行った経験はない。ましてやレズビアン少女だったことなどない。だとしたら李氏の小説を読んで先輩レズビアンの体験談に勇気づけられたと思っているレズビアン少女たちを騙していることになりはしないか?

また李氏は熱心なトランスジェンダー活動家でもある。数年前に日本のレズビアンバーが女性だけのイベントを行ったときに、トランスジョセーが無理やり入ろうとして断られ騒ぎになったことがある。李氏はその時レズビアンバーの方針を強く批判していた。しかしこの批判もレズビアンの立場からするのとトランスジェンダーの立場からするのとでは全く意味が異なる。

レズビアンなら受け入れる側の立場だし、トランスジェンダーなら受け入れてもらう立場であり、立場が全く逆である。この相反する双方の立場を同時に主張することは不可能である。

李氏のノートには、いかに自分が誹謗中傷で傷つけられたかという話が延々と書かれている。著名人である李氏とはくらべものにならないだろうが、私もオンラインで2年近く同じ女性に粘着され、本名や住所を晒され毎日何十回も嫌がらせ投稿をされた経験があるので、悪質な誹謗中傷を受けた李氏には心から同情する。

だがしかし、もし李氏が自分の性別や性指向に注目が集まるような言動をしていなければ、これらの誹謗中傷も起きなかったのではないだろうか?LGBTQ+当事者として、自ら自分の性別や性指向に注目を浴びるような活動をしておいて、自分の性別や性指向に注目が浴びせられたと言って文句をいうのはちょっと身勝手な言い分だと思う。

訴えた相手の素性をネットで晒す行為は許されるのか?

ところで李氏はノートや他のプラットフォームで現在提訴中の自分が訴えている相手の個人情報を晒しているが、どんな理由があるにせよこれは許される行為なのか?

普段自分はプライバシーを侵害されたとか、すでに公のレコードである自分の本名や出身校について公開する人はことごとく訴えてやると息巻いているが、自分が訴えただけで、まだ相手に非があったかどうかも裁判で決まったわけでもない人の名前や住所を公開するのは、今まで自分が悪質な行為だとして訴えてきたことと同じではないのか?それとも他人が自分に対してするのは駄目だが、自分が相手に対してする行為は許されるのか?

もしこの裁判で李氏が負けたら相手側は、李氏は裁判の勝敗ではなく自分の個人情報を得て公開するために勝ち目のない訴訟を起こしたのだ、として訴えることもできるのでは?

どうも李氏の行動には矛盾が多い。

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