見出し画像

最後の告白!アントニオ猪木vsモハメドアリ戦の真相とは?

プロレス界にはアントニオ猪木という男がいますが、その名前を知らない人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

アントニオ猪木は、日本の格闘技界における唯一のレジェンドであり、パイオニアと言ってもいいでしょう。

そんなアントニオ猪木は今から40年以上の昔に、ある伝説の試合を行っています。

そこで今回は、長らく語られる事のなかった、その試合の真相を探っていきたいと思います。

アントニオ猪木の、あの試合を知っていますか?

1976年6月26日、日本武道館で行われた『アントニオ猪木vsモハメドアリ』の試合は、日本における異種格闘技の原点となる一戦であった事は言うまでもありません。

試合の当日まで、マスコミ等では「世紀の一戦」と言われて大きな注目を浴びていたものの、終わってみれば「世紀の凡戦」と酷評される結果となりました。

確かに、エンターテイメントとしては凡戦であったかもしれません。

ただ、真剣勝負の観点からすれば、あの試合は正に世紀の一戦そのものであったと言えるでしょう。

そもそも、プロボクシングの現役世界チャンピオンが、わざわざリスクを背負って異種格闘技戦に参入する事自体が奇跡なのです。

一般的には現役を引退した後に、元世界チャンピオンという肩書きで対戦するのが普通です。

ですから、敢えて挑戦状を送ったアントニオ猪木、一方で挑戦を受けたモハメドアリは、どちらも異種格闘技の歴史に残る偉大な人物という事になる訳です。

そして、あの一戦に関しては、関係者もアントニオ猪木自身も長らく口を噤んできました。

しかし時の経過と共に、ようやく明かされ始めた真実があります。

では今から、アントニオ猪木vsモハメドアリ戦の舞台裏に隠された秘密を探っていきましょう。

その秘密を知った時、あの試合が希に見る真剣勝負であった事が理解できると思います。

アントニオ猪木vsモハメドアリ戦の発端は?

まず、この一戦が行われるようになった背景は何だったのか?

それは、当時からビッグマウスで知られていたモハメドアリの、こんな発言が切っ掛けになっていたのです。

「100万ドルを用意するが、東洋人で俺に挑戦する者は誰かいないか?」

この言葉にアントニオ猪木が反応を示し、そして挑戦を表明した訳です。

しかし、世界的にも有名なモハメドアリからすれば、アントニオ猪木は知名度の低い日本のプロレスラーにしか過ぎませんでした。

つまり、ネームバリューの点で格が違っていたのです。

そうした理由から、当初はモハメドアリの方が、アントニオ猪木の挑戦をまともに受けなかったというのが実際のところです。

ところが、アントニオ猪木が欧米のマスコミにアピールを続けた事で反響が大きくなり、やがてモハメドアリ側も挑戦を受けざるを得なくなりました。

そして遂に調印式が行われ、2人の対戦が正式に決定したのです。

アントニオ猪木に不利な試合のルール

アントニオ猪木の挑戦を正式に受けたモハメドアリは、当初この試合はエキシビションマッチであると認識していたそうです。

ところが、真剣勝負である事が分かると、アリ側は試合の直前になってルールについての厳しい制約を課してきました。

しかも、「要求を飲まなかった場合は出場しない」と脅迫までしてきたと言われています。

この強引な交渉の裏には、試合前に猪木の公開スパーリングを見たアリ側に、まともなルールで戦うと勝てないかもしれないという危機感があったようです。

猪木サイドは仕方なくこの要求を受諾しました。

そうでもしなければ、試合中止という不測の事態も起こり兼ねなかった訳です。

ちなみに試合のルール内容は大まかにいうと以下の通りでした。

・投げ技なし
・関節技なし
・立った状態での蹴りはなし
・ひじ打ちの禁止

つまり、アントニオ猪木はプロレス技のほとんどを封じ込められていたという事になります。

普通に考えれば、こうしたルールではアントニオ猪木に勝ち目はありません。

また、気になるギャラについては、アリ側が猪木側に1000万ドル(当時のレートで30億円)を要求したのに対し、猪木側は600万ドルを提示したそうです。

そして、結果的には610万ドルで折り合いが付いたと言われています。

ただ、興行が失敗に終わった事もあり、この一戦で猪木側は莫大な借金を背負ったとされています。

試合前の両陣営の様子

さて、試合を直前に控えた両陣営については、幾つかの興味深い話が残っています。

まず、アリ側について言うと、スパーリングが始まると同時に、取り巻きが取材のテレビカメラのレンズを覆ってしまいました。

また、アリがバンテージを巻く際に退出を求められた人もいるそうです。

更に猪木は後年、「アリの拳はセメントのように硬かった」と告白しています。

こうした点を踏まえると、アリはバンテージの中に何か仕込みをしたのでは?

という憶測も浮かんでしまう訳ですが、今となってはその真実を知るのは当事者でしかありません。

一方で、アントニオ猪木について言うと、控室では終始無言だったようです。

猪木にとってはルールでがんじがらめに縛られた段階で、この一戦は試合に勝つというよりも、むしろアリと試合をする事自体に意味があったのかもしれません。

また、ルールの交渉に立ち会っていた新間寿(当時の新日本プロレス営業本部長)は、せめてもの償いとして猪木に鉄板入りのリングシューズを用意したそうです。

しかし猪木は「後で悔いの残る試合はしたくない」という理由で、これを履く事はありませんでした。

こうした試合前の両陣営の様子から、この一戦がいかに両者にとってプレッシャーの大きな真剣勝負であったかを窺い知る事が出来ます。

いざ、決戦のゴング!

こうして様々な困難を経ながら、遂に世紀の一戦は幕を開けました。

試合開始を告げるゴングと共に、アントニオ猪木はモハメドアリの足元に滑り込むようにしてキックを放ちます。

そして猪木は、終始この戦法でアリを攻め続けました。

一方、猪木の戦法に苛立ちを覚えたアリは、立って試合をするようにと猪木に挑発を繰り返します。

しかし、プロレス技を禁止された猪木にとって、立ち上がって試合をすれば不利を被るだけです。

猪木自身も後年になって、アリのパンチ力については「ちょっと小突かれただけでグラッときた」「まともに受けたら立っていられない」「怖かった」と告白しています。

結局、猪木はアリの挑発には乗らず、寝た状態でアリの脚にキックを浴びせ続けた訳です。

しかし観客たちの多くは、両者の距離が詰まらず、直接的な絡みの少ない試合に苛立ちを感じていました。

如何せん当時の観客は、猪木にとって一方的に不利なルール内容であった事を具体的に知る由もありません。

何しろ当の猪木にとっては、あれが精一杯かつ最良の戦法であった訳です。

そして両者は15Rを戦い抜き、判定による引き分けという結果に終わります。

この試合の唯一の見せ場であったのは、6Rに猪木が寝ころんだ状態からアリの足首をつかみ、グランドに持ち込む事に成功した場面です。

その時、猪木はアリの頭部に反則の肘打ちを一発食らわすものの、アリは難なくロープブレイクに救われました。

もし、あの時に猪木がアリを最後までやり込めていたとすれば...

一説では、マフィアとも言われていたアリ側の取り巻きが黙っていなかっただろうとも語られています。

何しろ、当時のモハメドアリは現役の世界王者ですから、まだまだ稼げる金の卵です。

そんなアリにもしもの事があったとすれば、猪木陣営は命を狙われた可能性さえあった訳です。

そんな緊迫ムードの中で、幸か不幸か世紀の一戦は引き分けという形で幕を閉じたのでした。

試合後の事実

当時、世紀の凡戦と言われたこの試合が、実は壮絶な真剣勝負であった事は試合後の両者を見れば分かります。

まず、モハメドアリについて言うと、猪木のキックを何発も受けたその太ももは大きく腫れ上がっていました。

そして、膝の裏にかなり重症の血栓症を患い病院に入院しています。

何しろ、猪木のキックの威力を肌で感じていたモハメドアリは、試合中に猪木のリングシューズに凶器が入っているのではないかと抗議する場面もあったほどです。

一方で、アリを蹴り続けたアントニオ猪木の脚もかなり負傷していました。

実際のところはスネと小指が骨折をしていて、猪木は足が3倍に腫れたと言っています。

いかがでしょうか?

アントニオ猪vsモハメドアリの一戦には、こんな舞台裏の秘密が隠されていたのでした。

当時、まだ小学生であった私は、この試合をテレビで食い入るように見ていたのを覚えています。

そして今になって改めて見てみると、あれは世紀の凡戦ではなく、紛れもない世紀の異種格闘技戦だったと確信できるのです。

この試合は格闘技界の伝説として、これからも永遠に語り継がれて行く事でしょう。

いいなと思ったら応援しよう!