創価学会3世の私に入信動機のある理由ーー追記

一度「辞める」と言っておいて戻ったからには、もう二度と辞めないぞと決めた。もし仮に池田大作がペテン師ならば、俺は世界一のペテン師になってやろう。そういう心持ちで、私は創価学会員としての再スタートをきった。

信心は、基本からやり直そうと決めた。勤行・唱題もゆっくりと、発音やリズムを確かめながら行った。

行学の二道をはげみ候べしである。教学にも取り組んだ。やるからには本流から攻めようと、御義口伝の学習から始めた。冒頭の「南無妙法蓮華経の事」を拝読し、講義を読んだ。南無妙法蓮華経とは、他でもない、私自身のことなのかと、自分の中に衝撃が走った。

その他の御書も、スルスルと読めるようになっていた。未来部時代には、つっかかりながら読んでいたのに。不思議だった。

そうやって真面目に信心を再開してしばらくした1982年の春、第二回世界平和文化祭の開催の発表と、出場者の募集が始まった。

私はすぐに手をあげ、ぜひとも参加させて欲しいと先輩幹部につめよった。信心で自らを鍛え、この信仰の確信を掴む絶好のチャンスだととらえたからだ。

文化祭に参加するにあたり、私は自分に対して、三つのテーマをかかげた。

それは

1.自分にとって創価学会とは何なのか

2.自分にとって広宣流布とは何なのか

3.自分にとって池田先生とは何なのか

要は、未来部時代から抱いていた疑問への回答を得ようと決めたのだ。これらを分かりたいと、御本尊様に真剣に祈りはじめた。と同時に、折伏にも果敢に挑戦した。

文化祭の練習は厳しかった。真夏の炎天下、これでもかというほど、体をいじめぬいた。

もうこんな練習、明日は来てやるものか!と、心の中で不満を叫びながら汗を流した。

そして夕方、練習が終わると、今日も無事に乗り切れた。明日も元気に参加しようと思っている自分がいた。その連続だった。

日々、文化祭の大成功を祈った。

そんなある日の夜、仏壇の前に端座し、唱題をしていると、心の中に自然と未来部時代の光景が思い返された。

その光景の中では、私の周囲の大人の学会員さんたちは、皆、大切な未来部の成長のために、喜んで汗を流してくれていた。心を配ってくれていた。皆さんの未来部である私たちへの並々ならぬ思いがあった。

そして、今の私がある。

そう思いが至った時、私の両の眼から滂沱と涙が溢れてきた。

そうだ、今の私があるのは、そうした真面目で、真摯で、一市井であった学会員さんたちの献身があったればこそではないか。そう思うと、命の底から、感謝と歓喜の激情が溢れ出てきた。ただただありがたかった。

そして、過去の幼かった時分の自分から、今現在の自分へと、心の中で一本の線を描いてみた。その線を、未来へとまっすぐのばしてみた。そこには「広宣流布」というイメージが、ありありと浮かんでいた。

そうか!私の使命は広宣流布なんだ!その自覚を促さんがために、創価学会員さんたちは、皆、あれほどまでして私に関わってくださったのだ。これほどありがたいことがあるだろうか!これほど希望に満ちた人生があるだろうか!

私は一生、この尊い創価学会員さんたちに報いていこう。報恩感謝の思いで仕えていこう。どうか御本尊様、この尊い学会員さんたちを護り、支え、励ましていける人間に自分を成長させてください。そのためならば、どんな苦労もいといません!どうか死ぬほど苦労させてください。であればこそ、本当の意味で創価学会員さんたちを護り、支え、励ますことができるというものです!

泣きながら祈っていた。心の中で絶叫していた。

この祈りが、私の人生を貫く発心ともなった。と同時に、この祈りは、先に掲げた三つのテーマの内、一番目の「自分にとって創価学会とは何なのか」と、二番目の「自分にとって広宣流布とは何なのか」への回答ともなっていた。

さぁ、残りは三番目のテーマ「自分にとって池田先生とは何なのか」だけである。

それは、文化祭の最後の最後、フィナーレでおとずれた。

文化祭当日、演目が進むにつれて、雨が滴り落ちてきた。

そしてフィナーレ。今まで見てきた各種文化祭の様子だと、皆が涙を流しながら、歓喜を大爆発させるんだろうなぁと、私は実に醒めた様子でフィナーレを迎えていた。

全ての演目が終了し、会場は学会歌「紅の歌」の大合唱となった。小雨が降り続いていた。その雨で、私の顔はビッショリと冷たく濡れていた。

ふと気がつくと、頬の辺りがやけに温かい。何だこれは、雨ではないのかと思ったら、自分の涙だった。醒めた頭で、滂沱と涙を流している自分がいた。

その刹那、「紅の歌」の歌詞一節一節が、胸に深く浮き刺さった。練習の時も、幾度となく歌った歌だったが、これほど胸に刺さる経験はなかった。

万葉の詩 ともどもに
舞いに舞い征け 世紀まで

あぁ、池田先生が、共に舞をも舞いいこうと呼びかけてくださっている!

その時、私は豁然と心の中で叫んでいた。

池田先生は、私の人生の師匠なんだ!池田先生こそが師匠なんだ!

叫ぶように何度も「紅の歌」を歌いながら、心の中で叫んでいた。まさに三番目のテーマ「自分にとって池田先生とは何なのか」の回答が、ハッキリと命に刻まれたできごとだった。

後日談、その一。

私は困っていた。

文化祭が終わってからというもの、毎朝の勤行で涙が溢れ出てきて困っていたのだ。

ある日、大学で、一緒に文化祭に参加した後輩に「困ってるんだよ」と、毎朝の勤行の際の涙のことを話した。

するとその後輩は、驚いた顔をしながら言うのである。「ジャイアンさんもですか!僕もなんですよ!」私だけではなかったのだ。とても嬉しかった。

後日談、そのニ。

1982年も暮れようとしていたある日、移動のために乗り込んだ列車で、アルバイト先の後輩女子(高校生)とばったり出くわした。隣り合わせて席に座った。

「あぁ、今年は最高の年だった。本当にいい一年だった」と、私は何気に呟いた。

すると、その女子高生が私の方をマジマジと見るなり、興奮した様子で語りかけてきた。

「本当にジャイアンさんは、今年、変わったわよね!一体何があったの?」

思えば、アルバイト先での信用を失墜させた自分を知っている女性である。そこからの私の変貌ぶりに驚きを覚えていたのだろう。あぁ、私一人の思い込みではなかったのだ。私は確かに成長したのだ。

そう実感させてくれたやりとりだった。

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