Big Buddy

私を支えてくれた人たちに感謝します!私の頭の中を書き出します。

Big Buddy

私を支えてくれた人たちに感謝します!私の頭の中を書き出します。

最近の記事

おもちゃ

私は引っ込み思案であった。また幼稚園が家の近くになかったので、家のまわりにも友達はいなかった。そのため、一人でよく遊んだし、弟とよく遊んだ。一人で遊ぶときは、公園に行って虫を探すか、おもちゃで遊んだ。おもちゃの一部は、いとこからもらったものだった。よく覚えているもらったおもちゃは、仮面ライダーのベルトであった。私の子どもも仮面ライダーのベルトでよく遊んでいた。おもちゃ以外では、絵本や図鑑をよく読んでいた。 おもちゃは、年に1回、買ってもらえる日があった。大晦日であった。大晦

    • お泊り保育

      年長さんの時にお泊り保育に行った。その場所は、あるレジャーランドだった。小学校の時に、お泊り保育の話になったが、そのようなところには行ったことがない人ばかりであった。今思えば、珍しく良い幼稚園だった。大声を出すと水が勢いよく吹き上がる噴水があった。 家を出る前に、母から寝る前のトイレのことを私に話していた。実際、夜に先生に起こしてもらってトイレに行った。ちなみに、私の子どもも、早い時期に治ったが、よくおねしょをしていた。 写真による記憶だが、友達としょうもないことで口論に

      • 結婚

        結婚とは、新しい家族を作ることです。昔は、どちらかの家族に入るという考えだったので、このような考えはなかったとは思いますが、確実に、結婚とは新しい家族を作ることです。 新しい家族を作ることは、それぞれの背景・文化を融合させます。合わない文化もあるでしょう。融合させるときに衝突が起こり、けんかをすることもあるでしょう。これらを乗り越えるので、新しい家族は新しい文化を持ちます。 新しい家族を作ることは、新しい親族・親戚と出会うことです。相手の父・母と会います。相手の兄弟姉妹と

        • 釣り

          父は北陸、母は九州の出身である。夏になると母の実家に遊びに行った。母の実家は海の近くで、祖父が漁師であった。母は4人姉妹で、姉、妹、弟がいた。姉(伯母)には2人の子ども(男・女)、妹(伯母)には4人の子ども(男1・女3)がいた。私が幼稚園の頃は、男1・女3のいとこに会うことが楽しみであった。 九州へは、いろいろな方法で行った。夜行列車または飛行機に乗り、さらに電車に乗って、さらに船に乗るという過酷な移動距離と移動時間、移動方法だった。どれだけ「どこでもドア」が欲しいと思った

          私は身体と精神の上に魂があると考えています。身体が弱っていても、精神が強ければ耐えられることができます。同様に精神が弱っても、身体が強ければ耐えられることができます。しかし、魂が削られると耐えることが難しくなります。魂が削られるときは、身体や精神が弱りすぎた時に起こると思っています。 身体は設備、精神は部屋だと思っています。設備は機能性が高いものが良いでしょう。部屋も快適が良いでしょう。設備は、修理できるところが大変多いです。これがいわゆる病気です。人生の中で多くの病気をし

          パラバルーンと鼓笛隊

          幼稚園の運動会は、どこかのグラウンドで行った。パラバルーンと呼ばれる大きな布をみんなで膨らませたり、中に入ったり、回したりした。特に中に入ったときに先生と友達と顔を見合わせて楽しんでいたことを覚えている。 鼓笛隊もしていた。私は中太鼓だった。首から中太鼓をぶら下げて、先が大きく膨らんだバチを使ってたたいていた。小学校でも、学芸会は基本は太鼓を選択していたのは、この時の記憶があったからであろう。みんなと歩きながら、列を整え、列の間を一定に保ち、一歩一歩を大事に太鼓を叩きながら

          パラバルーンと鼓笛隊

          死生観

          人生を歩む中で考えたこと、思ったことも記述します。 病気になるたびに恐怖を感じていました。この恐怖は「どうなるのか?「何かされるのか?」「痛いのか?」というものだったと思います。私の家は豊かではなく、どちらかと言えば貧しい方でした。 貧しかったので、とにかく勉強しました。勉強して医者や弁護士になればお金がもらえると思っていた時代です。しかし、その当時は勉強の仕方もよくわからず、がむしゃらに繰り返す勉強しかできませんでした。いわゆる天才タイプではなく秀才タイプです。だんだん

          いもほり

          幼稚園の遠足でいもほりに行った。ただ、この日はいもほりだけでなく、これから行く小学校の健康診断がある日だった。私は、小さいときは注意力散漫で、人が言ったことをすぐには覚えられなかった。そのため、いもほりから移動するバスが出る時間を、午前か午後かわからずにいもほりをしていた。 私も先生に聞けばよかったのだが、引っ込み思案だったので、聞けずにモヤモヤしながらいもほりをしていた。いもほりに夢中になっていた時に、午前のバスが出てしまった。あれだったのか?と思いながら、さらにモヤモヤ

          いとこの家

          私にはいとこが、父方に5人(男3女2)、母方に6人(男2女4)いる。母の妹が近くに住んでいたので、よく遊びに行ったり遊びに来たりしていた。電車を2本乗り換え、家から30分くらいの駅の近くだ。 駅を出て、公園を左に曲がり、すぐ右に曲がると2階建てのアパートがあった。2階の向かって右から2つ目の部屋だった。入ってすぐ見えるのは、室内にあるジャングルジムだった。うちにはなかったので、とてもうらやましかった。またそのジャングルジムには小さなブランコも付いていた。 駅の近くの公園に

          いとこの家

          車のエンジン始動

          父は自営業を営んでいた。緑色の軽トラックを運転していた。幼稚園の頃は、父の工場の近くで遊ぶことが多かった。チョークで道路に絵を書いたり、自転車で公園に行ったりして遊んでいた。車に乗って、自動車を運転するような真似もした。 この車には、スイッチがあった。鍵がなくてもスイッチを押すとエンジンがかかる仕組みのようだった。車の鍵は父が持っていたはずなので、鍵は刺さっていなかった。不覚にも、そのスイッチを興味本位で押してしまった。 エンジンがかかり、幼い私は車が動き出すと思ってしま

          車のエンジン始動

          自転車での事故

          幼稚園の時に初めて自転車を買ってもらった。駒(補助輪)付自転車であったが、自分で動かせるところが楽しかった。父の工場へは、毎日行って、自転車で遊んでいた。 しかし、まだ未熟な運転技術だったため、ちょっと調子を乗ってスピードを出した。工場のまわりは狭い道が多いので、そこまで車がスピードを出していないが、広い道路もある。そこに突入してしまった。 未熟な運転技術だったため、スピードをコントロールできずに広い道に飛び出し、ブレーキのかけ方も未熟だったので止まれなかった。左から車が

          自転車での事故

          初めての自転車

          父は工場を営んでいた。自宅とは違うところに工場があったので、たまに行くのが楽しかった。2枚のシャッターがあり、父はそれぞれのシャッターを開け、真ん中の支柱を外す。いつもシャッターにつかまって途中まで引き上げられて遊んでいた。 幼稚園の時に父がシャッターを開けた。すると駒(補助輪)付自転車があった。私にとって初めての自転車である。父と母がニコニコしていた。本当にとても嬉しかった。この気持ちは、私の子どもに味わさせてあげたいと思い、今でも親としてサプライズをしている。特に「子ど

          初めての自転車

          黒いタイツ

          私は男である。男は黒いタイツを履くのはおかしいという時代の人間である。幼稚園の時、意味が分からず黒いタイツを履かされた。私の記憶では、少なくとも2回は履いている。自分から履いているのではない。母から履かされているのである。なぜ履かされていたかは覚えていないが、赤ちゃんの時の足先まですっぽり入るつなぎの服を着ているようだった。 黒いタイツは、トイレの時に困った。ズボンを下ろしてパンツを下ろして用を足すのであるが、ズボンを下ろして、黒いタイツを下ろしてパンツを下ろすというように

          黒いタイツ

          もぐら?

          幼稚園の園庭はコンクリートだった。しかし、木の近くの地面に横穴があった。コンクリートなのにだ。私が住んでいた地域は、基本はコンクリートの地面で、公園の地面が土であっても、すぐにコンクリートに当たる。土としてほれるところは、公園の砂場か木が生えている土くらいだった。それらでもスコップで掘れば、必ずコンクリートに当たった。 コンクリートに穴が開いている。私には不思議で仕方がなかった。幼稚園の園児も私と同じように穴を不思議がった。この園児は、私は全く知らない。園児が穴に木の枝を入

          驚きの幼稚園

          幼稚園のことを思い出したので、ホームページがあるか調べてみた。写真には、タイヤのブランコが写っていた。まだあったんだと懐かしく感じた。おまけに制服も思い出した。夏は白で冬は紺の制服で、デザインは水兵さんが着ているようなものだった。 この幼稚園が存在していることは知っていた。昔の父の職場の近くに今の実家があるので、たまに実家に帰ったときに子供たちに「ここがお父さんが通っていた幼稚園」といつもはなし、さらに園歌も歌う。まだ、わたしの頭の中には、幼稚園の園歌が記憶にある。インター

          驚きの幼稚園

          狭くて巨大な幼稚園

          幼稚園に入ってすぐの部屋に私は通っていた。ここは「赤1組」だったと思う。この時は年中さんだった。 年長さんになると「白E組」であった。白A組から白F組まであった。幼稚園の時の集合写真を思い出すと、他にも黄色や赤、青、緑の帽子をかぶっている。どれだけ人数がいるんだ!という幼稚園であった。しかし園庭は狭い。おまけにコンクリートの園庭であった。ブランコ2つ、砂場、グルグル降りてくる非常すべり台、飛行機型のジャングルジムがあった。ブランコは普通ではなく、タイヤに板がのせているものだ

          狭くて巨大な幼稚園