没後80年 清水登之展 栃木市立美術館 【栃木市で生まれ、アメリカ・パリで家族と暮らし絵を描き続けた画家】
蔵の街、栃木県栃木市の栃木市立美術館へ。
目の前に「文学館」も。息子はこの街の高校に通い、今建築家を目指している。街が気に入り入学した高校。是非蔵の街を訪れて欲しい。
2025年3月20日まで「没後80年 清水登之(しみずとし)」展が開催されている。
清水登之は栃木市に生まれ、軍人を目指したがその目標は叶わず、20歳で単身渡米し、もう一つの夢、画家を目指す。25歳までは、製材会社や農場で働き、生活だけで精一杯で絵は描けていない。アメリカの西側で働き、画塾で学んだ清水は、渡米10年目にしてニューヨークへ向かう。
ニューヨークでインデペンデント展をみた彼は、結婚のために一時帰国した際に描いたり取材した「壬生寺」と「ヨコハマ・ナイト」をこの展覧会へ出品している。
17年間のアメリカ生活を終え、家族と共にパリへ渡る。家族は清水の絵に登場することが多く、彼にとって家族は欠かせない大切な存在であった。
彼は、度々下の絵のように同一の主題で再度絵を描く。
パリにおける彼の代表作は、図録表紙にもなっている「水兵のいるカフェ」。
水兵の姿が不思議。キュビスムの影響を受けたのではないかと図録には書いてある。
私は清水登之の絵をみたときに下のタマラ・ド・レンピッカの絵を思い出す。
1927年、栃木の生家へ帰る。帰国後も二科展に出品するなどして、絵を描き続ける。
「地に憩う」はポール・ゴーギャンを思い出す。大地の力強さが伝わる。
その後清水も戦争に巻き込まれる。画家として戦時中の絵をいくつか遺している。しかし、戦争体験はこれだけでは終わらない。愛した息子「育夫」が戦死してしまう。戦前の絵の中に育夫は度々登場する。戦死の知らせを聞いた清水登之は、育夫の肖像画をいくつも描いて過ごす。
育夫の戦死を知った半年後、清水登之は病死した。
今まで知らなかった栃木出身の画家の作品と人生を学んだ。最近オーバーツーリズムが気になる東京の美術館や博物館へ行っていない。方向転換したら、地元のことを知る機会が増えた。