見出し画像

石を飲み込んだ日

前回の記事を書いた後に、ふと思い出した苦い記憶がある。
まだ若かった頃の話。

ある公的機関がメンタルヘルス事業の予算を組んでいて、研修や講演会の企画を募集していた。
ちょうどその頃、私は同業者と定期的に勉強会をしていたので、東京にいる精神科リハビリテーション界で著名な教授を研修に招聘したいと思って、その企画募集に手を挙げた。
すると、その公的機関のお偉いさんに呼ばれて、いわゆるプレゼンをさせられたのだけれど、この相手が“何だかとても嫌な奴”で、私は“その事業予算からお金を出してもらいたがっている人”扱いをされた。
え?と思った。そちらが企画を募集していると聞いたから手を挙げたのに、どうして金の無心をしている人扱いをされないといけないのか。
意味が分からなかった。
そもそも相手はそのスタンスで聞いてくるので、こちらの話を聞く気がないような、そんな印象もあった。
たった5万円くらいのお金をもらうために、私はこんな人に頭を下げないといけないのか。それだったら自分のポケットマネーで出すほうがましだ、とさえ思えた。

でも、その企画はすでにチームを組んで走り出していたので、ここで私がポケットマネーを出すことも、ケンカ別れになるようなことをすることも望ましくなかった。お金はともかく公的機関の“後援”をもらうことは、その研修会にとってもメリットがあった。
それで私は言いたいことも言えず、嫌な思いを飲み込んで相手に迎合した。
つまり「お金を出してもらうことをありがたがる人」を演じたのだ。
重い石を飲み込んだような、暗澹たる思いで、そのプレゼンは終了した。

帰り道、私は駅のトイレで胃の中にあるものをすべて吐いた。
飲み込めない思いを無理に飲むと、こんなことになるのかと驚いた。

それ以後もそう多くはないけれど、同じような経験をしたことがある。
「お金を出してやっている」という尊大な態度を取る人に接することが私にとっては大きなストレスになる。
いや、きっと相手ではなく
お金を出す側に主導権を明け渡して迎合する(自分の意見を飲み込んでしまう)、そんな弱い自分を見ることがストレスなのだ。

雇用されるのをやめて、個人事業をしている源には、この「石を飲み込んだ日」のできごとや想いが多少なりとも混じっている気がする。
助成金など、もらえるものはもらえばいい…と思えないところとか(笑)。
ちょっとしたトラウマになっているのかもしれないな。

そのことを思い出して
前の記事で「本心に沿う」という表現をした意味が後になってうっすら分かった、という話。


いいなと思ったら応援しよう!