猫キャバお嬢ミントと貢おじさん
いつの頃からか、地域猫の動画製作が趣味になった。それまでは、YouTubeなどに触る機会もなく、だから動画全盛期を迎えつつあったその頃にも関わらず、この領域に全く興味を持てないままであった。日々のタスクをこなすだけで精一杯の毎日に振り回されるばかりであったのに、気がつけば暇を見つけては猫撮りに町へ繰り出すようになっていた。
きっかけは、愛猫の死にあったと思う。忘れがたくて、それまで撮りためていた写真やiPhoneで撮ったチープな動画を見ているうちに、これらを構成してもう一度愛猫の生き生きとした姿を再生してみたい、という切実な願いが胸に湧き起こったのだ。
初めて作った動画はそれこそ惨憺たるものだったが、触ったこともない、iMovie(動画製作ソフト:Mac版)とやらに四苦八苦しながら完成までもっていけたことに、自分的にはとりあえず納得できるものがあった。
僕は作品を誰かに見て欲しくなったが、ふと我に返った。愛猫を知っている人間はそもそもほとんど居ないことに。
生きた証として、直接話などして盛り上がれる〝相手〟は、たとえ〝家猫〟という割と人間と触れあう機会が多い立場にある生き物のことであっても、極小さな範囲に限られるという驚愕の事実に気づいた時、愛猫がなぜだか急に不憫に思えてきた。だって、もしこの先、あの仔を知る数少ない側である僕なんかが娑婆の縁尽きた時には、もう誰もその猫が居たなんてことを覚えていないわけで。
考えてみれば、人間とはよく「生きた証」を残そうと奮闘する。けれど、たとえどんなに社会的に大きな影響力を持ち得たとしても、百年も過ぎてしまえばそんな人でも影は随分薄くなってしまう。
いわんや、小動物である猫など、すぐに忘れ去られても無理からぬことなのかもしれない。などと思いを巡らせていて、ふと、いややはりそれはあまりに寂しかろうという感情が胸の奥からジワッと染み出してしまう。
猫は何のために生まれてきたのだろうか。ある日どこかでこの世に現れた小さな命が、人知れずただ消えゆく運命を背負わされただけなのか。それではいくらなんでもあんまりのような気もする。
ここは、「いのち」の本質を捉える仏教聖典などにすがりたい場面だ。試みに、手持ちのもののページをめくると、その最初には、人間がなぜ生まれてきたのか、ということに触れた一文が目に飛び込んでくる。まさにタイムリー!
端的に言えば、仏の教えに出遇い救われるためとある。そして、救われたなら、自らも「救う」立場になってはたらくのだと、説かれていたりする。わかりやすく言うと、救いのループの中に命のご縁をいただいている、ということになろうか。
たしかに、僕が愛猫を拾ったのは、当初、彼女を苦境から助けるためであった。が、その後は、実はこちらのほうが圧倒的に世話になる回数が多かったように思う。猫を触ったり、猫に喋りかけたりといった関係性の中で、僕は何度救われた気持ちになったかしれない。
とすれば、世間にあまねくいる(野良)猫とかいうヤツの真の姿こそは、互いの関係性から紡がれる救いの網の目という蜘蛛の糸に、知らず引っかかってくる人間を、ただひたすらその無事を願いつつ忍耐強く待ち続ける〝菩薩様〟のようなものかもしれない。
それほど高貴な愛猫が実際ここに居たのだという証は、家の中を探せばそりゃいくらでも目に入る。爪とぎをして減築された柱の跡や、粗相をして掃除に四苦八苦した畳の上に未だ残る花林糖風のシミ、大怪我をして外から命からがら戻って来た際に点々と振りまかれた血痕など、それら一切にはまだ温かい記憶が灯っている。これがもし外猫だったらどうだろうか。
ひとたび彼らの命の灯が揺らいだなら、恐らくすぐにそんな生き物がそこに在ったことを、誰も忘れ去ってしまうはずだ。まるで、最初から何も無かったかのように。
動画を撮りだして改めて気づいたことがある。それは、後から見返してみると、意外に画面の中に鳥などが映り込んでいる場合が少なくないと。もちろん、撮っている最中は全く気づいていないのであるが。もの凄いスピードで横切っていることもひとつにはあろう。だが、わたしたちは、目の前をしっかり通りゆく生の命であっても、よくよく意識してそれに目を凝らさねば、見えているのに見えないままに過ごしているのだ。
外猫たちなど、誰かがよほど注意を払わねばその存在からして、きっとはじめから「なかったもの」とされてしまう。
映像に命の足跡を残そうというのは、別に高尚な危機意識や義務感からではない。そんなものを真に持ち得る人間など少ない……。だから僕の場合、猫の儚さに自分が思わず重なって何かしら戦いたからにすぎないと告白しておこう。
思えば、普通に生きて普通に死ぬというのは、野良猫あたりの人生とそう変わらないのかもしれない。家族や親戚や友人知人、会社関係、地域の中に居た顔見知りだって、すべからく皆同じ運命をたどる。その人が亡くなった途端、後は猫同様、静かに忘れられていくのだ。織田信長や豊臣秀吉や徳川家康などよほどの歴史上の偉人であれば、あるいは別かもしれないが。しかし、たとえそうであったとしても、さて、彼らのお骨はどうなっているのか。このあたりよくわからないところも少なくない。
第一、 普通の人間はそんな偉人にまずなれそうもないし。
だから、僕はいま、身近な人達によくこうアドバイスをしたりする。自分の肉声を残して置くといいですよ。できれば、動いている姿なんかも、と。出しゃばりなのは承知の上である。だが、猫動画を撮りだしてから、野良猫たちから何か声にならない声のようなものが聞こえるように僕はなっていた。「わたしたちを忘れニャいで」と。それに背中を押されてのことだ。
でもそうやって、一心にカメラを回していると、ちょくちょく声をかけられるようになった。
「何してるんですか?」
見りゃわかるだろう……
「YouTubeですか?」
いちいち詮索すんな……
「お仕事はそっち系ですか?」
余計なお世話だ。念仏くらわすぞ……
いかん、これではせっかくお声がけしてくださった親切な方々とまったく会話にならないではないか。反省しつつ、「この猫に名前はあるんですか?」などと、こちらから質問返しなどをしてみる。
一般的にその答えは「ない」の場合が多い。無論その時もそうであった。
だって、名づけたら情が湧くから。異口同音にそう仰有る。
わかっているのだ、皆さん。
どれほど可愛がっていても、ある日、突然居なくなる猫の命の儚さと寂しさを。
だから距離を置く。僕もそうするはずだった。
だが、ある日、その猫の背中にソッと手を置いた時、背骨のカーブ具合や首から尻尾に至る長さや丸みを帯びたラインが亡き愛猫にそっくりであると知った瞬間、その仔がもう特別になってしまった。ミントちゃん。僕はついそう口にした。特に考え抜いたわけでもない。ふと唇にその名が現れたのだ。白ブチ模様に、大好物のミントアイスクリームのチョコチップが想起された、などと知られてしまうと汗顔の至りだが。
以来、週末などにミントちゃんを撮影していると、誰彼構わず「ミントちゃんは今日も可愛いですね」などと揶揄混じりの声をかけられるようになった。
——ったく、どこでこの仔の名前を知ったのだ。
僕は誰にも聞こえないように細心の注意を払い小さく呼んでいたはずなのに。
公園に集う人達に悪い人はいない。うん、恐らく。
気安く声をかけてくるあのおばちゃんは学校関係らしいし、チュール片手に口笛吹いて手なずけているあっちのおっちゃんは見るからに人が良さそうだ。地域の巡回員みたいな大将は、こちらが餌を与えている容器を持ち帰る様子などを讃えてくれる。いくら大人になっても褒められるのは気持ちのよいものだ。
ここには不思議なルールというか、暗黙の了解事項みたいなものがあって、よく知らない人には取りあえず警戒心から少しだけ探りを入れる。だけれども、一旦、あの人は大丈夫そうだとなったなら、それ以上の詮索はしない。
僕らは互いに顔見知りの関係にまではなったけれど、彼らがどこの誰で何をしているのかについては特に何も知らないし、自分から言わない限りは聞くことなどもしない。ここでは誰しもが、猫を存分に愛でる横並びの緩い仲間であり、娑婆の肩書やらあるいは性別やら年齢なども含め、一切がフラットで平等なるただの人間同士という、摩訶不思議な場が保たれている。
だが、そんな奇跡的なバランスで成立している希有なユートピアを、いともアッサリ崩す輩がいるから困ってしまう。誰在ろう、猫さまだ。その日の気分で、最初に飛びつく相手を選び餌をねだる。一番に当たったなら嬉しいが、外れたなら無論ちょっと複雑な気分になる。やはり、あの大将のチュールの魔力には勝てないのか悔しい、今度はカツオ節で釣るぞ、などと。
平等であるはずの場に序列がつくられるとき、そこは先ほどまでの極楽から、嫉妬の業火が燃えさかる娑婆へといきなり姿を変える。
僕は、猫とは救いをもたらす存在だとそれまで信じて疑うことはなかったが、そのようなことが繰り返しあってから、猫とは絶望や嫉妬心を運んでくる使徒なのかもしれないなどと、はじめてその正体を知って驚愕する無垢な村人のような顔を作ってみせて、ひとりゴチるのである。
可愛い顔をして恐ろしいヤツめ。よし、バツとして今日は〝Sheba〟の外はカリカリで中はクリーミーな特上品を与える。大いに喜ぶがいい。う? なぜそんなにも悲しそうな表情なのだ。もしかして、こっちがよかったのか?
そっと差し出してみたパウチのパッケージに強烈な反応を示すミントちゃん。一瞬、もったいないなとよぎったものの、別の容器に出してやる。猛烈に食らう。やはり、そちらがようございましたか……
ああ、嫉妬心に加え、惜しむ気持ちまでが湧いてしまった。目の前にいるこの仔は紛うことなく魔女である。一瞬でも菩薩のあらわれなどと思ってしまった自分の、まさに都合良くものごとを捉えてしまう浅はかさに、僕はもはや深く恥じ入るのである。
と、王女さまのように優雅な様子で食事を終えたミントちゃんが、僕に向かってミャッと啼いた。まるで、美味であった許す、とでも言いたげに。続けて、ゴロンと何度も転がり出した。撫でていいぞ、のサインである。それに従い、僕は、毛繕いのお手伝いを直ちにさせていただかねばならない役割を与えられていた下僕である自らの立場を思い出す。
ミントさまのお腹や背中に手を乗せてナデナデする。いや、させていただく。得も言われぬ触り心地とはこのこと。ああ、こここそ極楽だ。魔女はいまや菩薩に転じたのだ。間違いない。そう思いながらふと尻尾に目がいくと、何やら気のせいか黒い三角模様のようなものがその先っぽに見え隠れする。
気のせいだろう——
単なる黒ぶち模様を見間違えているだけだ。
僕はそっと目をつむる。
掌にあたるふわふわの感触が僕を虜に、いやもといダメにしていく。
猫に夕日が差し込む。白毛が目映く輝く。
地面に映った影に濃さがいよいよ増した。