〝あの頃——2000年頃〟の子どもの道くさ
#子どもの道くさ #水月昭道 #東信堂 #高学歴ワーキングプア #荒らしへの対応
みなさん、こんにちは。昨年(2020年・令和2年)の夏にバズった「子どもの道くさ」研究ですが、早くも季節は 秋・冬・春 と移り変わり、あと少しすればまたあの暑い夏の盛りの到来です。
そこであの熱狂からそろそろ1年を迎えようとするこの機会に、本研究を着手した〝あの頃——西暦2000年〟の前後の頃を思いだしながら、懐かしくも、また時に厳しい逆風にさらされたそんな風景について、ここに記すことにいたします。《令和3年(2021年)春》
(なんと不思議なご縁といっていいのかはわかりませんが、大好きな大滝詠一さんのサブスクもちょうど解禁だったりもして♬。あの頃も実に懐かしい)
さて、本研究は、1999年から2000年にかけての大きな節目のなかで始まりました。元号で言うと、平成11〜12年にかけてのスタートとなります。
昭和が終わったのが1989年(昭和64年)ですから、そこからもう10年目の風景となります。それでも令和の現代からするとそれは、まだまだ昭和の名残が強く漂う景色と映ったみたいですね。
実際、「子どもの道くさ」がバズった時に、Twitterのリプ欄には「昭和の風景だ」と思われた方も多数おられたようです。
その頃の世相というのは、既に1991年(平成3年)にバブルが弾けてから8年も経っているというのに、どこかまだイケイケのムードも残していたように思います。
2000年代に入ると、西鉄バスジャック事件など少年による犯罪の増加というニュースで社会は少しナーバスになっていきます。ですが、それはまだ序の口でした。「子ども」をめぐる環境について決定的な影響を及ぼし、世間を集団ヒステリーのような状況に陥れたのが、2001年に発生した大阪・池田小の事件でした。
続く2003年にはまたも少年による凶行が長崎で発生します。中学生男子が自分より小さな男児を手にかけたのです。家電量販店から連れ去り立体駐車場で犯行に及んだと報道されました。
この頃、わたしたち研究グループは、そもそも少年少女を含む子どもたちのそれぞれが安心できる居場所というものが社会から決定的に失われつつあるのではないかという問題意識から、それらの実態を調査し明らかにするとともに、どのような対策が可能かを模索するための議論を展開した研究書を刊行しました。社会学、心理学、精神分析学、地理学、建築学などの研究者が集まって実施された学際的な研究でした。
しかし、そうした試みも虚しく、2005年には、広島市安芸区、栃木県今市市で下校途中に小学一年生が事件に巻き込まれてしまいます。子どもの安全についてより一層の対策をするよう社会的要望も強まっていきました。
その頃、「子どもの安全・安心」を最優先に掲げ、子どもたちを大人の監視下に置くことでそれを実現していこうとするようなそれが強まるばかりの社会風潮に危機感を抱いたのか、朝日新聞の記者がわたしたちの研究にアクセスしてこられました。
「通学路が歩道つきの見通しのいい道に整備され親は安心しても、子どもはがっかりしているかもしれない」そんな刺激的なリード文で、その記事は全国紙の紙面に大きく展開されました。
【出典:「道草 楽しい 生活道路」,朝日新聞 朝刊 生活19面,2005年(平成17)3月9日(水曜),川上健記者】
そして、「子どもの安全に配慮してそれと折り合いをつけることも大事だけれども、もう少し子どもの視点に立ってみることも同様に重要なのではないか」という論調で記事は締めくくられます。
この記事が出た翌年に、僕の初の単著となる『子どもの道くさ』(東信堂)が刊行されたのです。
あまりにも嬉しくて、紀伊國屋さんやジュンク堂さんなど数件も書店巡りをし、書棚をわざわざ覗きに行ったことは、ここだけの内緒話です。
すぐに書評がつき、僕は内心ドキドキしました。
【出典:朝日新聞 夕刊 文化9面,2006年(平成18年)7月28日 金曜日】
ですが、その頃はまだ社会の空気がピリピリとしたままで、「子どもに道草をさせる」なんてあり得ない、といった風潮が依然として支配していたのです。
当然ながら本はまったく売れません。僕は軽く失望しました。せっかくあれほど力を入れて書いたのにな、と。
どんなに思いの丈を込めてあっても、時代の風潮にあわなければ受け入れられないのだ、と身をもって思い知らされたのでした。
しかし翌年、突然今度は、我が身にそれとはまったく逆の風が吹きました。
「高学歴ワーキングプア」(光文社新書)という、これまた人生初の商業出版となる本を出したところ、瞬間最大風速が吹きあれ初速から一気に大増刷の流れが形成され、結局8万部のベストセラーになってしまったのです。
僕は一躍、「高学歴ワーキングプア」の著者として認知されるようになります。一方で、「子どもの道くさ」はその恩恵をまったく受けることもなく忘れ去られていきます。
ひとたび本が売れると次々と取材が舞い込み、また次作の企画も同じように進んでいきました。僕も、売れた本の関連仕事に必然的に集中するようになり、売れないほうの本のことはだんだんと頭の片隅に追いやられていきました。
その頃、著者ができる情報発信と言えば、ホームページか、せいぜいblogくらいなもので、Twitterなどはまだ日本語版もないばかりか、そもそも誰も知らないし使ってもいないような状況です。だって、ようやくiPhoneがこの世に誕生した頃なのですから。
そんなまだSNSも(考えてみると電子書籍すらも)無い寂しすぎるネット環境でありましたが、せっかく本が売れたのだから、この機会に可能な手段で情報発信にも力を入れておくかという気軽な気持ちで、手探りながらもそれに取り組むことにしました。
そんなある日のこと、突如、僕のblogのコメント欄が荒らしにあいます。
「高学歴ワーキングプアなんて本を書いているけど、お前の名前から察するに寺の人間だろう。2ちゃんやウィキに書き込んでやるからな」といったものでした。
一体、何が気に食わないのかまったく理解不能でしたが、その人物が予告したように〝2ちゃんねる〟ではスレッドが立てられ、その者の手によると思われるフェイクニュースと誹謗中傷が延々と続きました。
蓋をあけると、その人はとある大学教員で年齢も結構いってある方(近年退官したようです)であったというオチで、膝が脱けそうになったわけですが……。
その方はなかなか手の込んだことがお好きで、たとえばIDを毎回変えて1人何役もこなし、自作自演でスレッドが倉庫に落ちないように、その自分が立ち上げたにもかかわらずほとんど誰も来ない板を必死に持ち上げておられました。
ちなみに、そのお人、ウィキペディアでも同じ手——IDを複数用いた自作自演によるフェイクニュースの作成、を使われてもおられます。面白いことに、すべて自作自演にもかかわらず、その内のひとつのIDに特定の役割を与え——こいつは本人に違いないなどと、まるで編集欄で自分と相手が口論しながらそこに関わりがあるように見せかける巧妙な手口まで用いておられます。実際には、その方おひとりで想像遊びをしているだけに過ぎないのですが……。
こういうことが多々ありますので、ウィキペディアの、特に人物欄については絶対に真に受けないことが大事なのです。
うっかりそれを見て本人に確認もせずに信じてしまい、あろうことか万一にでも相手にそのまま「こういうことがあったんですか?」とか、「あなたはこういう経歴なのですね」などと聞いてしまったりすると、メガトン級の地雷を踏むことになりかねません。
大変危険ですので、人物の経歴については、それなりの信用がおける(新聞社などが運営する)サイトのデータベースを参照することをお勧めします。わからない場合はぜひ直接本人に問い合わせましょう(取材の場合など、特にここは要確認ポイントですよね)。
しかしまあ、単なる匿名掲示板や小学生でも書き込めるウィキペディアなどで、わざわざ、1人何役もこなしての悪口を書き連ねる労力のかけかたといったら……。その恐ろしいまでに丁寧な仕事ぶりには、さすが大学教員だなと妙な関心をした記憶があります。
(※ここで速報です!どうも最近また似たようなことがあった模様です。若手でちょっと名の知れた大学教員——(「応仁の乱 〜戦国時代を生んだ大乱〜」の著作がある)が匿名で他の教員を中傷し発覚、というこれまた残念なものです)
とまれ、その当時の僕はもろもろ疲れていたこともあって(匿名での事実無根のいやがらせなども含んで)、ネット自体にちょっとかなり嫌気がさしてしまい、blogの更新もスパッと止めてそこから距離を置くことを決断しました。
すると、その方は「blogを閉鎖に追い込んでやったぜ」みたいなことを言ってひとり悦に入っていたようでありましたが、そんなもんそもそも誰も見ていないだろうし、僕も相手にする気などさらさらなかったので当然放置です。
そろそろTwitterが盛り上がり始めだしている時期でしたが、当然それなどに手を伸ばしたりする気も全く起きませんでした。
それが、2020年(令和2年)になって、あることがあってネットの世界へ舞い戻ってきたのです。前年の秋に愛猫が浄土へ還ったのです。その彼女をネット世界へ転生させてみたいと思ったからでした。
思い返せばこの随分昔の頃、その荒らしの主の先生に、「寺は金持ちだろう。生意気にワーキングプアなどのタイトルをつけた本なんか書きやがって」などとの、根拠が全く不明な中傷を受けたことがきっかけで、「では実態を世間に知ってもらおうではないか」との思いで後年になって書いた本が、「お寺さん崩壊」(新潮新書),という本なのであったりもします。それは刊行されるや否や重版出来となり注目されたわけですから、まさに人生万事塞翁が馬だと思わざるを得ません。
さて、『子どもの道くさ』本から始まったのこんな僕のこれまでに至る、それこそ道草そのものの凸凹執筆人生でありますが、振り返るとその記念すべき初の著書は当時ウンともスンとも言わず低空飛行のままに終わったのでありました。
その代わりといってはなんですが、初の商業出版となった「高学歴ワーキングプア」(光文社新書)のほうは一気にメジャーへの階段を駆け上がっていったのです。
なので一旦は、そのままに終わるかと思われたこの「子どもの道くさ」物語なのですが、まだその頃には誰も想像だにできなかった未来が僕らを待ち受けていました。
それから14年後のこと。その当時に箸にも棒にもかからなかったあの「子どもの道くさ」が、ついにバズってしまうという奇跡が起こったのです……。
そんなことは、予想できようはずもないことです。
僕だって、自分の内側から出てくるほとばしりに従って研究をしたまでのことで、それ以上の期待めいたものなど実際何一つもっていなかった。事実、当時は売れずに、僕は著者であるにもかかわらず、半ばその存在すらも忘れかけていた……わけで。なのに、なんとこんな素敵な未来が待ってくれていようとは。
今からすると、「ずっと信じて待っているからね。応援しているよ。いつかこのエールが絶対に届くはずだから」と、そんな喚び声でその本は、生みの親である僕のことをひたすら支えていてくれていたようにも思えてしまうのです。
その喚び声が、14年もの歳月をかけて、遅ればせながら本当にやっと不肖の著者である僕の耳にも届いたのでしょう。
「子どもの道くさ」の長い長い旅は、その「本」自身によって、既にはるか昔に、後の奇跡に連なる小さな一歩を、最初からもうしっかりと踏み出していたのですね。
その歴史を今回こうして、読者の皆さまと一緒に経験できましたことは、これに勝るものはないほどの喜びです。
今後も、こんな素敵な、そして予期せぬからこそ面白い「道くさ」の、小さくも確かな幸せに連なっていくそんな旅を、皆さまとご一緒できますれば幸甚に存じます。
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