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『猫キャバと下僕奉仕 〜その救済のループ〜』

町中や公園を散策していると、耳にV字カットが入ったサクラ猫さんに出会うことが珍しくない。去勢や避妊手術を受けた証が記されているわけだが、法則性があって、右耳にV字カットがあればオスで、左耳だとメスらしい。

その多くは地域猫として、愛されながら命を全うするが、世の中には、糞尿や車のボンネットに乗るなどの行為が苦手という向きもあって、見えないところでの苦労は意外に多いようだ。

だからだろうか。サクラ猫たちに餌をやっている方々を見ていると、もちろん猫好きのはずだがそれ故に猫嫌いの方がいることも承知しているようで、あまり目立たないようにしていることが少なくない。無論マナーも大事にしている。容器の持ち帰りや餌を余らせない等。

地域猫を大事にする姿勢は本来優しさのあらわれとして地域社会を潤してくれるように思うのだが、猫嫌いさんの目を意識すると、あまり胸を張ってというわけにもいかないようである。

一方で、人間社会に織りなす微妙な綾などどこ吹く風の、当の猫さん。世間に気を遣いながらもコッソリ餌をくれようとしている控えめな人たち相手に、堂々とすり寄っては次々に自らの下僕として取り込んでいくしたたかぶりである。

そんな彼ら彼女らニャンズに無事に認められて、運良く僕(しもべ)となりて「奉仕」の世界に足を踏み入れたとして、後述するように、そこから先もまた下僕たちを、見えないルールや気遣いの世界が待ち受ける。

さて、下僕達の心の裡は概ね浅ましいものだ。なぜなら、その猫さまにとっての〝一番〟に自分こそがなりたいから。

そんな下劣な欲望が下僕を衝き動かす。「今日はチュールを持ってきまちたよ〜」「カツオ節はお好きかニャ?」「高級カリカリ手に入りましたよ」

これではまるで、猫キャバに足繁く通う、さもしいおっさんそのものである。

もはや煩悩に囚われた我が姿に僅かの恥らいすら忘れた下僕らは、人目も憚らずそうやって、猫さまに媚びに媚びまくる。おかげで連中の——いやもといオイラの財布の中身はスッカラカンだ。自分の好きな食い物や飲み物のひとつも買わず、猫まっしぐら、いや猫さまへ真っ直ぐにご奉仕にでかける日々は、しかし下僕の心を真の安寧で満たしてくれもする。

古来、奉仕とは、それを行っている瞬間を「無私」のこころで過ごすことができるという、貴重なプチ「悟り体験」の実践として、広く社会でもみられる馴染みの風景であった。

しかし、現代では、奉仕と聞くと、「それって何の得になるの?」と返される始末である。

きまってらぁ。奉仕ってのは、自分の救いのためになってんだよ、って自覚がある連中が、誰に言われるまでもなく好きでやってることなんですって。それを現代では「推し活」ともいう。

〝下僕〟こそは元祖、「推し」萌え!、なんである。

「推し」の一番に今日こそ成り上がりたいと願い、勝手に名前をつけて覚えさせようと必死になった挙げ句、いくら呼んでも決して反応しないつれない相手に日々落ち込んだり、気まぐれにすり寄ってくるリアクションに一喜一憂を繰り返すのが真の勇者というものなんだよ、と下僕の中の下僕を自任する自分としては声を大にして言っておきたい。奉仕とは、喜びとともに一抹の寂しさをもたらす。それは、己の心にさまざまなスパイスとなって豊かな味で満たしてもくれるが……。

奉仕には、先に少し触れていたように、実は厳密なルールも存在している。自分ばかり奉仕しない、というものだ。

奉仕をなされたい方は沢山おられるのである。だから、譲り合いの精神が大切とされる。いくら自分がその日に大枚はたいて最高の餌を〝奉納〟したからといって、その日いつまでも「推し」の前にとどまっていてはいけないのである。一定の時間が経ったらすみやかにそこから去るのが、推し活という奉仕に勤しむ者同士の暗黙かつ厳粛に守られるべきルールなのである。

あるいは、時間を見極めることが肝要だ。あの下僕の方は確か午後七時頃のご出仕だな、と知ったからには、自分はその時間は避けるべきなのが紳士淑女たるものなのだ。

奉仕とは極めて尊いものだ。そこへ、「自分が自分が」という気持ちが入り込めば、それは直ちに汚れてしまう。とことん、「無私のこころ」を貫き通さねば、到底、推しの一番になどなれようはずもなかろう。

高級カリカリをあげたから、触らせてくれてもいいはずだ。ナデナデさせてもらえて当然だ、などとはゆめゆめ思わないことだ。

「本日は、最高級カリカリをお供えさせていただく機会をいただきまして、まことにありがとうございます。つきましては、尻尾の付け根などをナデナデして毛並みを整えさせていただけますと幸いでございます」などと、きちんとお伺いを立てて、その後に「うむ」とゴロン姿勢などを賜った場合にのみ、恐る恐るお手をおかせていただくわけで、その瞬間いただく得も言われぬ気持ちをこそ深く味わい〝ご本尊さま〟に感謝するのが、誠の下僕奉仕というやつなのだ。

奉仕とは奥深いものである。
気を遣うというのとは違う。
ただご奉仕させていただく。
ひたすらにそれだけなのだ。

そこに、自分の力では到底得られない喜びがもたらされるのである。

つまり、ご奉仕とは自分がしているような気になるのであるが、実際には自分へこそ向けられた目に見えぬ救済のはたらきであり、だが本人たちはその自覚もないままに与っているということでもあろうか。

そうか、いまやっと分かった。

目の前の猫さまは、この愚かな自分を救うために、奉仕の機会を与えてくださっているに違いない。とすれば、きっと中身は仏さまのような気もする。仏教では、すべての生きとし生けるものや草木にすら仏性を見出していくけれど、それは自分が仏の救いの目当てになっていることを悟る契機ともなっているからなのだ、と目の前の猫さんを見ながら改めて思ったりするのである。

うん、とても不思議だけど、目前に座する、あニャた様のお顔が今日はまた一段と輝いて見える。

いつか、この白黒ぶち猫——ミント様の一番になってみたいものよ、との愚かな煩悩に振り回される私を、実際にはこの菩薩猫様こそが、そんな自分をそのままに救おうとしてくださっているのだろうか。いや、きっとそうだと信じよう。

「ミントちゃん♪」そっと呼んでみる。
——相変わらず、まったく無視か……

いかんいかん、無私のこころこそが大事だよ。
きっとあなた様はそう仰っておられるのですよね。無言で!
胸の裡で反省していると、ミント様が「ミャッ」と啼いた。

そのご尊顔にまるで笑みが浮かんでいるように映り思わず目をこする。
——ああ、やはり仏様であられましたか。
呟きが漏れ静かに手を合わせた。

晴れた夕方の、心地良い冷たさを含んだ風が、初夏の暑さにほてった頬を爽やかに撫でていった。

南無阿弥陀仏。なぜか念仏が口から零れた。


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三毛猫と博士
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