七つのロータス 第26章 パーラ
皇宮の私室から中庭を囲む二階の回廊に出る。目を刺す陽光から目をそらし中庭を見下ろせば、色とりどりの花々が目に入った。中庭に降りれば、少しは気が晴れるかもしれない。革のサンダルで木の階段を踏んで降りる間にも憂いは胸に忍び込んでくる。最近では仕事も全く手につかない。パーラは静かにため息をついた。
皇帝の異母姉は日々を糸車を回し、布を織ることに費やす。手で覚えた手順どおりに贅沢な糸を扱っている間、空になった心を不安が満たしていく。今日はとうとう気分が悪いと言って自室に戻ってしまった。
心を悩ますのは女官たちの噂。パーラの耳に入れまいとはしているものの、柱の影から、ついたての裏から漏れ聞こえてくる言葉。摂政ジャイヌが皇帝を廃するつもりだ。日に日に反抗的になっているナープラにジャイヌは手を焼いている。ジャイヌはもっと従順な皇帝を求めている。新しく皇帝に据えられるのはパーラだろう。
馬鹿らしい。パーラは耳から聞こえてくる噂を心の中で必死で打ち消す。不安な言葉が聞こえてくるその度、その度。どれほど打ち消しても心配は心に忍び込んでくる。ナープラはジャイヌの孫だ。孫を害そうとする祖父がどこにいる。そもそもジャイヌの権力の源は、皇帝の祖父だということだ。肝心のナープラを皇帝の座から追ってどうする。噂は囁く、ジャイヌは既に権力者だ。権力者は己の権力を守るためなら、肉親の情だって捨てられるだろう。皇帝を代えた時に問題なのは、その血縁から別の大貴族が発言力を伸ばすことだが、パーラの母方は大貴族ではない。ジャイヌを敵にまわしてまでパーラを庇う後ろ楯はない。
パーラは冷えきった頬が痙攣するのを感じた。違う違う。目の端に涙が溜まる。そもそも幼くともナープラは皇帝だ。どれほど権力者だといっても臣下でしかないジャイヌがどうやって皇帝を廃することができるのか。
「方法はいくらでもあるわ」
不安を打ち消すために念じる言葉を更に打ち消す言葉が、まるで本当に耳元で聞こえたようで、パーラは悲鳴をあげた。
ジャイヌは苛々とした気持ちを燃えたたせながら、皇族の私邸である内宮へと向かった。御前会議に姿を現さなかった皇帝を嗜めるため、という口実で内宮へと足を進めるが、ジャイヌの腹は決まっていた。他人に任せることはできない。秘密を知る者は少ない方がいい。自分一人が最上なのだ。
この数ヶ月ほど悩ませ続けられた問題に決着がつけば、きっと壮快な気分になるだろう。
パーラは美しい花の咲き誇る中に座り込んでいた。中庭の美しさも結局パーラを慰めることはなかった。もしも皇帝にさせられたとして、どうなるのだろう。ナープラのようにジャイヌを苛立たせること無く、静かに勤めを果たし続けていれば、日々はただ静かに過ぎていく。そうに違いない。
「本当に?」
ジャイヌが苛立つ理由は、ナープラが反抗的だというだけ?ナープラには反ジャイヌ派のハジャルゴが近づいていたという。自分がなにもせずとも、皇帝になれば数多くの人々が近づいてくるだろう。
何がジャイヌの怒りを買うかわからない。毎日を恐れながら一生過ごしていくのだろうか。
ジャイヌはナープラをどうするのだろう。ナープラがされることは、自分の身にも降りかかるかもしれない。
「兄さま・・・」
パーラの口からただ一人の肉親に救いを求める言葉が漏れた。
ジャイヌは中庭を巡る二階の回廊にナープラの姿を認めた。好都合だ。周囲に人の姿もない。ジャイヌは大股に歩を進め、足音荒く階段を登った。
「またお小言?」
ナープラは小馬鹿にした口調でジャイヌを迎えた。
その態度も今日限りだ。ジャイヌはひとりでに浮かんでくる笑いを噛み殺す。
「そのような態度では困りますな。今日も御前会議を黙ってお休みになって。集まった皆さんもご心配なさるどころか、いつものことと。呆れられてて諦められて」
ジャイヌは大袈裟にため息をつく。
「皇帝としての責任を果たしていただきませんと」
ナープラは笑った。
「臣下が皇帝を操れるとは思わないことだ。僕もいつまでも子どもじゃない。摂政殿、あなたの態度は命を縮めますぞ」
ジャイヌも笑った。良心の呵責も肉親の情もすべて消し飛んだ。何の躊躇いもなく仕事を済ますことができるだろう。
「ハジャルゴに出した手紙のことを言っているのか」
愉快でならない。ナープラの顔は蒼白となり、顔に浮かべていた薄笑いは消え去った。
「なぜ?」
「皇帝が命令すれば、皆が何でも言うことを聞くと思っていたか?そう甘いもんじゃない」
ジャイヌが一歩二歩と歩み寄る間、ナープラは身動きも出来なかった。愉快でならない。ジャイヌは手を伸ばし、ナープラの首を掴んだ。ナープラの震えが腕に伝わる。ジャイヌはナープラの顔を思い切り石の手摺に叩きつけた。
パーラは静かに眠っていた。花の中に半ば埋もれるようにして。頬の涙は乾いていたが、その跡ははっきりと残っていた。
ゆっくりと目が開く。緑と赤と黄色、そして空の水色と白で視界が埋まっている。緑の匂いが鼻腔を満たす。まるでお棺の中から空を見上げているようだ。子どものように泣き寝入ってしまったのだと気づいて、それでも身を起こす気になれなくてただ空を見上げ続けていた。
悲鳴。
悲鳴が一声、鋭く響いてすぐに消えた。パーラは身を起こす。素早くとはいかなかったが、微睡みの名残は飛び去っていた。
何?何が起きたの?声のした方に歩を進め、視界を遮る椰子の木を回り込んだとき、空を舞う何かが見えた。二階の回廊から鮮やかな色をした塊が飛び出してきた。中庭の周囲を囲む切り石の回廊に叩きつけられたとき、ようやくそれが皇帝の衣だとわかった。礼装ではなく私室で過ごすときの服装。そしてその服から血が、夥しい血が流れ出て血溜まりが広がっていく。
見上げれば二階の回廊からはジャイヌが身を乗り出して皇帝を見下ろしていた。その顔には確かに、ああ確かに笑いが浮かんでいる。
パーラはしゃがみこみ、草むらの中に身を隠した。ジャイヌは自分に気づかなかったようだ。ここにいることを悟られてはいけない。息を殺していなくてはと思っても息は日頃よりも激しく、喘ぐようにしなければ息が出来ない。心臓が激しく打ち過ぎて痛い。
「誰か!陛下が二階から落ちた!誰か!」
ジャイヌの叫び声が聞こえた。違う!落ちたのじゃない、落とされたんだ。そっと顔を出して、ナープラを盗み見る。血溜まりの中身動きの一つもしない。
皇帝は死んだ。この数日パーラを悩ませていた疑問の答えがそこにあった。ジャイヌは皇帝に手をかけたし、敢えてそうしたのなら権力を損なうおそれは無いと確信しているのだろう。そして次の皇帝は・・・。パーラはもう一度ナープラを見る。あれは明日の自分の姿だ。
逃げなくては。パーラは震える脚に力を込めて立ち上がった。あちらこちらから人の集まってくる気配がしはじめている。パーラはそっとその場を離れた。
叔母である先帝の妹が神官を勤める大神殿にいくと言えば、宮殿を抜け出すことはできる。でもその後、どうすれば良い?そのまま神殿に匿って貰う?それとも・・・。
渡し守は流れているのか澱んでいるのかも定かでない河面を眺めながら、今日はこのまま坊主で終わりそうだと考えていた。大河を見下ろす丘の上に築かれたグプタの都の傍らで商売をしていても、こんな日はけして少なくはい。そもそも大河の西岸に用のある者は限られているのだから。
日は西に傾き陽光が赤みを帯びる。等間隔に植えられたナツメ椰子の一本に背をもたせ、渡し守は静かに微睡んでいた。
「もし。向こうまで渡していただけませんか」
小鳥の鳴くような女の声で目が覚めた。あたりは既に薄暗くなっている。話しかけた相手はと言えば、神官の長衣を頭から被り顔は見えない。背丈と声から女と知れるだけだ。
「今からでは河の半ばで真っ暗になってしまいます。明日の朝、出直してください。それともウチに泊まりますか?安宿ですんで、女の人にはオススメしかねるんですが」
「お願いします」
渡し守の家は、朝一番に大河を渡る客を泊める宿を兼ねていた。素泊まり専門の安宿である。何も言わずに粗末な部屋に収まった客に、どれほど訳ありなのかと渡し守は呆れた。まあいい、訳ありの相手はなれっこだ。渡し守は、自分も寝床へと潜り込んだ。
夜明け前に渡し守と客は舟に乗り込んだ。河から立ち上る霧の中を舟は滑るように進む。大河の西側、それは出家して瞑想の生活に入る者たち、あるいは浮き世から離れて己の武芸や学問を磨く者たちの場所だ。逃亡した罪人や奴隷、社会から顧みられない賎民の生きる場でもある。
社会を捨てた者たちと社会に捨てられた者たち。渡し守は詮索したくなる気持ちを押し殺して、黙々と櫂を使った。