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七つのロータス 第16章 ゾラII

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 日が昇り、そして沈んだ。この一日の間、サッラの騎兵も帝国軍もあえて城壁の外へうって出ようとはしなかった。城壁の外では敵、今やハラート族とそれに従う被征服民だとわかった敵もまた、城壁の外で半数ほどの兵が陣を敷いただけで、それ以外の兵はあちらこちらと動き回っていた。梯子や櫓を持ち出す様子も無く、城壁を掘りぬこうとする作業すら止めてしまった。静かな一日だった。
 勿論、人々の心中までが静かで穏やかであったわけではない。アルタスは朝早く起きだすと、すぐに城壁に登って外を見下ろした。敵もアルタスと同じように早く起きだして、早々に布陣に取りかかっていた。
「変化なしか…」
アルタスは思わず声に出した。昨日、アルタスたちが焼いた天幕。あれだけが敵の食糧の全てだったとは限らないし、敵がすぐにどこかへ消えてなくなるわけではないこともわかっていた。敵が今まで通り、朝になれば陣地を整えることも充分考えられたし、覚悟もしているつもりだった。だが、落胆は予想以上に大き かった。
 アルタスは溜息をつくと、城壁を降りて厩へと足を向けた。

 ネムは護衛の兵士二人に挟まれるようにして、朝からタラス人の捕虜たちの話を聞きつづけた。タラス陥落の時の様子、タラスの現状。ネムは幾度も涙をこらえねばならなかった。

 ゾラも朝から広間でタラス人以外の捕虜の尋問を熱心に続けていた。ハラート族の戦士たちには、大首長ドゥルランダに心酔している者が多く、口々に「草原の民」としての正しい生き方を説くのだった。

 厩に顔を見せると、待ちくたびれた白銀しろがねが嬉しそうにアルタスを見つめた。側によると、アルタスがよろめくほどの勢いで、顔をすりよせてくる。背後からは紅蓮が前足を打ちつける音が聞こえるが、今日はできるだけ無視する事に決めていた。紅蓮は今は帝国軍の誰かの乗馬なのだ。本来、勝手に触れて良い馬ではない。名前さえアルタスの耳にはなじみの無い、別の言葉に変えられてしまっているだろう。
 引き綱をつけて白銀を厩から出し、跨って速足で歩かせる。城壁の内側を三周もすれば夜の冷気が払われて、耐えがたい真昼の暑熱の兆しがあらわれるはずだ。

 夕刻、日の暮れかかる茜色の陽光が周囲を支配する頃、館の広間で食事の用意が整えられていた。敷物の上にはサッラの族長とその家族、サッラの騎兵隊長たち、サイスと帝国軍の隊長たち、そしてネム。
 食事中の座興にゾラが呼んだのは、サッラの歴史を彩る英雄たちを物語る語り部だった。アルタスはサッラに長く仕えているこの語り部の技量が、帝都で見かけた吟遊詩人に遠く及ばないことを思った。よく言えば素朴、とも言えなくはない。だが帝国の言葉を母語としているわけでもないアルタスにも、はっきりとその力が感じられたあの詩人とは比べるべくもなかった。アルタスは帝国軍の隊長たちに目をやる。彼らの中には草原の言葉にあかるくない者もいるだろうに…、父に余興を変えるように言ったほうがよかっただろうか。音楽であれば、客人たちも楽しめるだろう。
 いつ言い出そうかと思いながら平たいパンをちぎって口に運ぶうちに、アルタスは語り部の物語が不穏なものを含んでいることに気づいた。物語に登場する英雄たちは、サッラの戦士階級が定住する前、馬と牛の群れに囲まれ天幕に眠る漂泊の生活を送っていた時代の人物たちだ。この英雄時代の最後に、彼らは城壁に囲まれたサッラを征服した。そしてアルタスたちの父祖は草原での生活を捨て、定住を選んだのだ。サッラの征服者として。それは遠い昔の話とは言え、忘却と伝承の彼方に流れ去ってしまうほどの過去ではない。
 サッラの市民階級と戦士階級は、代々の為政者の努力の甲斐あって、激しい対立は克服している。アルタスにとっては意識して思い出さない限り、もともと被征服者と征服者であったことすら忘れていられるほどに。それなのに何故、父はこのような物語を聞かせるよう語り部に命じるのだろうか。戦士階級と市民階級が、共同して外敵にあたっているこの時に。アルタスはこの不自然さを父親に言い出す思い切りもつかぬままに、食事を進めた。ただ淡々と時は進み、アルタスは食事が終わる頃には自分だけが奇妙に神経質な想いにとらわれただけだと思うようになっていた。

 戦いの無い一日が暮れ、夜が明けた。城壁の上から、敵陣の上に横たわる分厚い闇を眺めていた見張りの兵士は、ようやくにして明るさを取り戻した空の下で、大きくのびをした。冷えて強張った体を少しでも暖めておかないと、いつかのように敵が突然はしごで登ってきたりした時に、体が思うように動かないなどということにもなりかねない。
 天から地へとゆっくりと光が染み渡ってゆくにつれ、地上の事物が再び明るく照らされだす。城壁の真下から、矢の届く距離よりも遠くまで両軍の骸で埋まった大地。降ってわいたご馳走にありつこうとする鳥や獣は、昨日の日暮れよりもさらに数を増している。そして…。一瞬、何がおかしいのかわからなかった。
「敵が…、いない!」
昨日、敵が数限りない天幕を張っていた場所にはわずかな痕跡、天幕の支柱を立てた跡、煮炊きをするために土で作ったかまどや、わずかに掘り下げた窪みに残された焚き火の跡。
「敵はいなくなったのか…?」
暫く痺れたように立ち尽くした後で、兵士の胸の奥から何かが涌きあがってきた。
「勝ったのか…?」
自分でも押さえきれない叫び声が、朝の空気を震わせる。兵士の歓喜の声は、サッラの街の端から端まで届いた。
 敵襲を報せる声かと、短槍や抜き身の剣を手に兵士たちが駆けつけてくる。見張りの兵士は息も絞り尽くし、喘ぎ喘ぎ、それでも満面の笑顔で、空となった敵の陣地を指差してみせた。

 ゾラは敵の退却を簡単には信じなかった。ただちに騎兵を出し、敵を探させる。四方に散っていく騎兵隊長たちには、伏兵に気をつけるよう一人一人に特に念を押した。撤退したように見せかけるのは、敵を誘い出す常套手段だし、敵はサッラを包囲する陣地に大きな損害を出したせいで、陣地を別な場所に移す気になっただけかもしれないのだ。だが周囲二十ミーリア四方には、敵の姿はなかった。おびただしい人と獣の足跡や轍の跡から、敵はタラスの方へ撤退していったらしい、ということがわかっただけだった。

 双方の軍勢に踏み固められた大地には、無残に傷ついた骸が積み重なるように転がっている。サッラの市民階級の男たちは、未だに武装したままで死体の片付けに励んでいた。敵味方の区別をする余裕も無く、城壁に沿って掘った溝に次々と遺体を放り捨てる。その傍らでは更に溝を掘り続ける男たちの姿がある。戦士階級の男たちは、馬に乗ったまま、油断無く目を配っていた。敵が突然戻ってくることはなさそうだったが、万が一ということがある。
 ゾラは僅かに腐臭を放つ死体の中を、徒歩で歩いていた。一歩歩くごとに、死体をついばむ禍々しい鳥たちが、盛大な羽音をたてて飛び立つ。そしてすぐに手近な死体へと舞い降りて、再び饗宴をはじめるのだ。草原で腐臭を嗅ぐのは初めてだった。乾燥した草原では普通、死体は腐るよりも早く干からびてしまう。そうならないのは、多数の死体が折り重なっているからだ。時には骸が、わざわざ積み上げたのではないかと思えるような、小山をなしていることすらある。
 一つの死体の前で足を止める。多くの死体の中に転がっていたそれは、革の小板を連ねた胴鎧を身につけていた。ハラート族の装束にはまるで知識がないが、 それでもその立派な武装と風格を感じる体格から、おそらく雑兵ではなく武将であったのだろうと思える。脇腹と胸の二箇所で銅鎧が破れ、肉が大きくえぐられている。胸の傷は歩兵の長槍ではなく、騎兵の槍によるものだろう。
 その死体が鞘に収まったままの短刀を握っていた。ゾラは全く意識しないままに身をかがめ、その短刀を拾い上げた。ハラートの将の力ない指先が一時からみつくように感じられたが、それでもあっけなく短刀は新しい所有者の手に収まった。革の鞘に包まれた短刀を抜き放つ。それは磨きあげられた黒曜石のナイフだった。思わず感嘆の声をあげ、日の光に輝く刃に目を走らせる。石でありながら、ゾラが腰に佩く銅剣よりもよほど滑らかな刀身。これほどになるまで磨くのには、どれほどの根気と労力が必要であったろうか。
 文明の産物である青銅の武器を拒否する意思。まさか連中だって、ここまでまったく金属を知らずに来たわけではあるまい。ゾラはナイフを鞘に収め、懐に入れた。感傷的な事だ。自ら苦笑いを浮かべる。既に日は西に暮れかかり、全てを茜色に染め上げていた。大地を覆う骸も、死体を漁る鳥も獣も、死体を片付ける作業に追われている人々も、まるで炎の中にあるように見える。この分では、明日もまた多数の死体と格闘するしかないだろう。いったいいつになれば、サッラ はまともな日々に戻れるのだろうか…。

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