七つのロータス 第54章 パプラ
甘いナツメヤシの酒が満たされた杯。まるで卜者が水鏡を見つめるように、平らな褐色の飲み物に視線を注いでいる。いよいよだ。エンジャメナは決意を噛み締める。ビーマの三千の兵士たちは、市壁の一部を成す砦に終結している。街や村の守りを肩代わりする市民や農民たちも、武装を整えている。もう迷いはない。もはや進むしかなくなった後で躊躇うのは、愚者のすること。逃れられぬ道ならば突き進むのが自分の流儀だ。たとえ自ら望んだ道ではなかったとしても。市民によって皇帝に担ぎ上げられただけであっても。
「文字通り、な」
ふと思いついたことを 口にすると笑いがこみ上げて、歯の間から息が漏れた。傍らで酌をする若い女奴隷が、上目遣いにエンジャメナの顔を盗み見て、すぐに視線を落とす。人々の肩に担がれ、広場を練り歩く羽目になったことを苦笑交じりに思い返しながら、ナツメヤシ酒に口をつける。あの場で皇帝になることを拒絶したら、あるいは先延ばししようとしただけでも収拾のつかない混乱に陥っただろう。はっきりと皇帝になると明言する事。それだけが取れる方策だった。
月明かりだけが照らす部屋。廊下越しに星空を見上げながら、静かに眠気の訪れるのを待っている。口もきかぬ召使に酌をさせている以外、ただ一人。
問題はグプタが少しばかり遠過ぎる事だ。酒で唇を湿らせながら考えを巡らす。だが一息にグプタを攻めることができないかわりに、道々味方を増やしてゆけるかもしれない。エンジャメナは自分と同様、意に反して皇帝になったであろう姪の顔を思い浮かべ、杯に残った酒を飲み干した。夜の生き物たちの声が、遠くから風に乗ってくる。
微かな朝日に照らされて、ゆっくりと目を開く。強張った上体をゆっくりと持ち上げる。よし。市民の歓声に迎えられて皇帝になった男は、力強く立 ち上がった。脚を縛り上げるようにサンダルの紐を固く締め、革の脛当てを着ける。召使の手を借りて、清潔な短衣の上に青銅の胸甲を着ける。最後に腰に剣を吊るす。高価な貴人の軍装に身を包み、胸を張る。出発の時が近づいてきていた。
遠く遥かに岩山が見える。三日の行程を経て辿り着いたのは、最初の目的地であるヤマ。帝国の七都市の中で最南端に位置するため、南方のプシャン やマヌバラといった大国に対する貿易の拠点であると同時に、防衛の最前線でもある。ヤマの都城は岩山の上にあり、その南面は大河に抉られ、城壁から一直線 に川面まで落ちこんでいる。城の東にただ一つ開いた城門からは、岩を削った坂道が折れ曲がりながら下り、ふもとの城壁に囲まれた出城へ続く。河港の周囲に 広がる街がその外に広がる。その街も低い城壁で囲まれているが、これは市民を都城へ逃がす時間稼ぎのための簡単なものだ。戦いになれば商業で賑わう港をすみやかに捨て去る覚悟を固めた都市。攻略するのにこれほど手強い都市はない。
夕暮れが近い。すべては明日の話だ。そろそろ兵士たちには野営の用意をさせるべきだろう。ビーマからの使者が追いついてきたのは、そう考えていた時だった。伝えられたのは、グプタでジャイヌが捕らえられ、殺されたという報せだ。
「そうか」
そ れ以上なんと言うことができただろう。予想はしていたのだ。グプタに辿り着くまでに挙兵の大義が失われてしまう危険があることは。だけれども一度皇帝を名乗った以上、兵をおさめるわけにもゆかない。エンジャメナは組み終えた指揮官用の天幕にもぐりこみ、食事もとらずに身を横たえた。
ヤマの太守パプラは商業地を取り巻く第一の城壁から、その外側に布陣する三千の兵を見下ろした。エンジャメナは僅かな手勢で閉ざされた城門の前まで進み、パプラを見上げて呼びかける。
「理はどちらにある?帝都ではないとは言え、民衆に推されて皇帝に即位したわたしと、奸臣の立てた皇帝をそのまま戴くグプタの連中と」
この城を攻略する力は今の自分にはない。グプタに攻め上がる間後方の憂いを断つには、説得が唯一の方策だ。
「さあねえ、僕にはわからないな」
意外なことにパプラは笑顔で応えた。まるでただの世間話でもしているかのようだ。
「わからない?」
呆気にとられて鸚鵡返しに尋ねると、やはり笑い出しそうな声が降ってくる。
「そう、わからない。だからどっちにも付かないよ。
「僕はこの街と周辺の農地と、そして兵隊を皇帝から預かっている。預かったもの、たとえば兵隊は皇帝の言う通りに扱わなくちゃいけない。だけど皇帝と名乗る人間が二人になって、どっちの言うことを聞けばいいのかわからない。正式な皇帝はパーラかな?ちゃんとグプタで即位の儀式をやってるしね。でもあんたはそれを無効だという。前の皇帝ナープラを殺したジャイヌが、パーラを皇帝に仕立てたって話が本当なら、それも一理あるなあ。でもパーラの即位が無効だからって、あんたが皇帝になる正当性があるかい?」
痛い所を突く。しかしだからと言って、引き下がるわけにはいかない。
「わたしは皇家の正しい血筋に連なっている。そして人民がわたしを認めてくれたのだ。それで充分だと思わないか」
穴だらけの論理だ。だけれどもこれで押し通すしかない。エンジャメナは上を見上げる姿勢が苦しくて、首をぐるぐると回した。パプラは笑い出すだろう。不意にそう思った。そうされたらおしまいだ。今、相手には自分の決起自体を、ただの茶番に貶めることのできる立場にある。だけれども、ヤマの太守はそれをしなかった。
「わからないねぇ、僕には。だからさ、パーラと話し合うなり、喧嘩するなりしてそっちで勝手に決めてくれよ。皇帝が一人になったら、僕はその人の言うことをきくよ」
予想外の言葉に、しばらく理解ができなかった。局外中立の宣言。そういうことか。
「帝国が内戦に陥るのを黙って見ていようというのか?」
「内戦するしないは、あんたたちの勝手だ。帝国全体のことを考えて、最善を尽くしたい気持ちは有るけどね。でも僕には僕の務めが有る。自分の預かっているのものを、無傷で次の皇帝に受け継ぐこと。僕にとってはそっちも大事でねぇ。おあいにくさま。
「それに僕があんたの味方したからって、皇軍同士で戦わずにすむというもんでもないだろ」
「内戦に乗じてプシャンやマヌバラが帝国の領土を侵さぬとも限らんぞ」
「その時はここで食いとめるさ。水路はここで遮断できるし、陸路もここを迂回していくのは容易じゃないのは知ってるだろ。皇軍同士で戦うよりは、外国と戦う方がよほど気楽だ。帝都からの援軍が期待できなくても、この街や周りには元兵士もたくさんいるし、周辺の同盟国も助けてくれる筈だしね。ググにいる征南軍も グプタに向かうんでなきゃ、いざとなったら合流してくれるだろうし」
密やかな恫喝。いざとなれば自分は本来与えられた三千の手勢よりも、遥かに多くの兵士を扱えるのだと告げているのだ。
「それにあんたの言ってること、ちょっと変じゃないかな。あんたに味方したら、兵隊をグプタに送る事になる。こっちを手薄にしたら、帝国全体が危うくなりはしないかい?」
「守りは薄くなっても、いざとなったらわたしの手勢を差し向ける。ここで援軍のあてもなく戦うよりは楽だろう」
「なるほどね」
グプタ勢と戦っている時に、その余力があるかと問われることはなかった。だけれどもパプラはそれに気づかぬほど愚かではなかろう。情けをかけられているのだろうか。エンジャメナの胸中に始めてその考えが忍び込んだ。
「では皇帝が一人に定まったとして、貴殿が味方しなかったことを、その皇帝が咎めたらどうするつもりだ。内戦が終われば残った者は、最初から自分一人が皇帝であったことは明らかで、自分に味方しなかったのは逆臣だと言い出しかねぬ」
「その時は他の誰にも累が及ばぬよう。僕一人の責任にしてもらうさ。この首ひとつでヤマとその周辺の住民の命が贖えるなら、安いものじゃないか」
エンジャメナは笑った。何ひとつ可笑しくはなかったが大笑した。もう切り上げ時だ。
「天晴れな心意気見せてもらった。貴殿に背後を突かれる事はないと信じよう」
エンジャメナは馬首をめぐらすと、速足で隊列を敷いて待つ兵士たちの元へ戻った。かろうじて引き分けに持ち込んだ。いや、パプラがとどめを刺さずにいてくれただけか。次の目的地、ウラマへの進軍を始める頃には、とうに午を過ぎていた。
パプラは遠ざかって行く兵士たちを見ながら、安堵の息を吐いた。理屈の通じる相手で良かった。心の底から思った。たかだか三千の軍隊がヤマを落 せる筈はないが、それと被害が無いこととは全く違う。住民と兵士の命、他国に対する帝国の威信、商業上の利益。パプラには守るべき物が多すぎた。
それでも内戦を避けるためには、ここで足止めしてエンジャメナの計画を水泡に帰せしめるという選択肢がなかったわけではない。だけれどもパーラとその取り巻きの統治力が未知数である以上、人々の評価の高いエンジャメナをここで葬ってしまう気にはなれなかった。
思い出すのはオソリオ征服帝の言葉。ふさわしい者が皇帝になるためには、内戦をも恐れるべきではない、という持論。征服帝はこれはと思う人物には、この話を聞かせていたのだ。皇帝の血筋にない自分にも。
「賛同するわけではないんだが……」
パプラは次第に遠くなって行く、エンジャメナの兵士たちを眺めた。槍の穂先が陽光を浴びて、ところどころで小さく輝いて見えた。