七つのロータス 第52章 ネムIII
砂丘を登りつめると空がひらけた。ドゥルランダは砂丘の頂で馬を止め、砂埃に霞む城壁を遥かに見下ろす。あの街をそのままにしておくのは忌々しいが、より大きな獲物が行く手に横腹を晒しているとあっては、後回しにする他はない。だが、久しぶりに不覚をとった相手だ。いずれは焼き払わずにおくものか。胸の中で誓い、ドゥルランダは顔を西に向け馬を進めた。後に続くのは騎兵だけで数千を数える大軍勢である。騎兵も歩兵も一言も発することなく、ただ砂を蹴散らす音だけが轟くほど。後にはサッラの兵に背後を突かれぬ為の、服属民のみからなる一軍が残った。
サッラの南門の櫓から、族長のゾラと騎兵隊長のひとりであるイッポ、そして帝国軍の指揮官グルクが、ハラート族の行進を見守っていた。砂丘の陰に見え隠れする大軍は、どれほどの兵がいるのか見当もつかない。とりわけ厳しい表情を浮かべているのは、グルクだった。グプタへ危急を報せようにも、サッラは再び包囲されていて、伝令の兵を出すこともかなわないのだ。
「ゾラ殿、兵の用意が整い次第門を開けて敵に切りこんでいただきますぞ。サッラの騎兵で敵が崩れたところへ皇軍がなだれこめば、必ずや包囲を破って帝都に伝令を出すことができましょう」
グルクの言葉に、ゾラは吐き出すように答える。
「愚かな!味方が危うしとなれば、あの大軍も戻ってこよう。うって出るのは、敵の本隊が遠く行き過ぎてからでなければ」
この男を一喝できたのが、唯一の痛快事であろうか。ジャイヌの書簡が届いてから、グルクは酷く扱いづらくなっていた。二軍で変成されていたサッラ救援軍の生き残りを、征東軍が鎮東軍を吸収する形で一軍に編成し直し、その将軍にグルクを据えるという命令書だ。正式に将軍となったグルクは目に見えて尊大になり、 同盟国の族長であるゾラにすら時に礼儀を忘れるのである。
「帝国の民を見捨てるおつもりか!」
「伝令も敵に捕まっては、民を救えまい」
ゾラは言い放つと、櫓を降りる階段へと体を向けた。不毛な言い争いは願い下げだった。
城壁の上へと降りながら、懐中の短刀に手を触れる。かつてハラートの将のものだった黒曜石のナイフ。
「儂はもっと怒るべきなのだろうな」
砂混じりの風の中で、小さく独り言ちた。
背後から名前を呼ばれて振り返ると、部屋の入口にネムが立っていた。揺れる小さな炎の明かりで、純白の長衣が暗い橙色に見える。
「お寛ぎのところ、失礼します」
「いや、構わぬよ」
帝国の様式で建てられた石造りの宮殿。その寒々とした一室に、ゾラは一人で座っていた。その正面にネムは座り、深々と頭を下げた。
「何事だね」
「お願いがあって参りました」
ゾラは黙って頷くと、ネムは静かに語り出した。
「なるほど、まるきり無意味かもしれぬが、やらないよりはましであろうな。」
ネムの提案を聞き、族長は賛嘆の声をあげた。
「ですがサッラの城壁に、タラスの軍旗を立てることになります。快く思わぬ方もあるかも知れません」
「それは気にするには及ばない。今は味方ではないか」
笑いながら言い、その後でしばし考えをめぐらせてから立ちあがった。
「ちょっと立ってみよ」
促されて立ちあがったネムを、頭からつま先まで眺める。落ちつかなげに身じろぎする娘の体は、細くてしなやかそうな印象を与える。
得心がいくまでネムを見て、ゾラはひとり頷いた。
「それではそろそろ休むがよい。自ら重荷を背負ったのだから、体力を蓄えておくものだ」
不思議そうな顔をしながら、ネムが出て行く。ゾラは大きく腕を振って左右に体をねじると、自分も眠ることにして寝室へと向かった。
ゾラはまた南門の櫓の上から、敵の陣営を見下ろした。再度の包囲から三日目である。敵の数は約五千、見まわしたところ騎兵はほとんど見つけられない。サッラの騎兵一千と、帝国軍の三千があれば、充分に太刀打ちできるだろう。朝の日差しが既に熱気を帯び、体に戦いの前の高揚を感じる。今日の戦いは、帝国騎兵五騎を帝国への伝令に出すためだけの戦い。何も気を昂ぶらせる事はない。苦笑を微笑へと変えて振り返ると、そこには二人のタラス人が待ってい た。
「やはり儂の見たてどおり、ぴったりだ。重くはないかね」
ネムはかぶりを振る。純白の長衣の上に革の小板を連ねた胴鎧をつけ、腰には小ぶりの刀を帯びている。
「アルタスが十五の時に作らせたものだが、なかなかの女武者ぶりだ」
「アルタスさまの、鎧」
ネムは呟いて、鎧の胸に手をやった。
「ああ、息子はこれを着て、帝国に行ったんだが、その時は戦いにはならなかった。だから傷んではいないし、手入れも怠りない」
ネムは両手で胴鎧を撫でる。
「それを聞いたら、なんだか心強いような気がします」
ゾラは微笑すると、城外へ向き直った。城壁の下には、矢の届かぬ距離を隔てて、敵が布陣している。
「始めるかね」
「はい」
ネムの声は力強かった。
ネムは狭間胸壁のすぐ内側まで進む。耳の脇で唸りをあげるのと同じ風が、髪をなびかせる。見下ろせば、目も眩む高さの下に、手の指よりも小さな兵士たちが犇いている。
背後で旗が風に乗って開く音がした。かつてネムの乳母の夫であったクシュが、サッラの兵士に助けられながら旗竿を支えている。白い羊毛の布に、薊の図案を縫い取った旗。タラスの軍旗だ。
軍旗を目に焼きつけるように見つめ、顔を正面に戻す。心臓が大きく脈打っているのがわかる。膝が震えている。逃げ出したい思いをこらえて、大きく息を吸いこむと、少しだけ気持ちが落ち着いた。長々と息を吐き出し、また大きく吸いこむ。
「聞きなさい」
思いきって声を出すと、不安は更に薄れていく。
「あたしやこの旗に見覚えがある者たち、聞きなさい。あたしは今、このサッラの人々の保護を受けています。あたしばかりではありません。街の人々も何百人かこの街に匿われています。今、二つの街は長年の敵意を捨て、恐ろしい敵と共に戦う仲になっているのです。強いられてこの場にいる者たち。武器を捨てなさい。 サッラの兵士に敵意のないことを示しなさい。くれぐれもサッラの人々の友情を裏切ったりせぬよう。そして自分たちの祖国を滅ぼした敵を、利するような行いをせぬよう」
言い終わると、ネムはよろめくように一歩退いた。城門が開く音と、サッラ騎兵の叫び声が門の下から伝わってくる。
門の内側に二百のサッラ騎兵、五百の帝国歩兵、そして帝都への書簡を運ぶ五騎の帝国騎兵。
「くれぐれもタラス、という言葉には気をつけて下さい」
サッラ騎兵を指揮するイッポは、帝国軍の五百人隊長に、不慣れな帝国の言葉で念を押す。
「わかっています。兵士たちにも徹底させてあります」
頷きあって別れると、イッポは愛馬に跨った。
「くれぐれも無抵抗の者を殺すな。誤ってタラスの兵を殺したら、死刑もありえるぞ」
最後にもう一度兵たちに命じたところで、門が開き始めた。頭上でのネムの呼びかけが終わったのだ。
「行くぞっ!」
扉が開ききるのももどかしく、サッラの騎兵は飛び出す。土を蹴立てて敵陣へと一直線に進む。たちまち周囲に矢が降り注ぐ。
「タラスの民よ!武器を捨てて、門をくぐれ!タラスでなくとも構わん!我らとともにハラートと戦おうという者は、武器を捨てよ」
叫びながら、歩兵の列に突っ込む。槍と蹄が敵をなぎ倒す。
「戦いたくない者は、逃げろ!早く!」
敵が自分に武器を向けていることを確認しながら戦うのは、予想以上に難しかった。敵陣には武器を捨てて逃げようとする兵、それを押し留めようとする兵、ひたすら戦う兵が混在している。タラスの兵と他の兵だろうか、サッラの兵のいないところでも、戦いが始まっている。
「怯むな!敵を蹴散らし、タラスの兵が逃れられるようにしてやるのだ!」
今頃は他の門でも、タラスの兵に呼びかけながら、サッラの騎兵が戦っているはずだ。この難しい戦いを、生き延びられるか。イッポの胸に、今まで感じたことのないような不安が沸き上がっていた。
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