七つのロータス 第25章 ナープラII
ナープラは自室に引きこもり、泣き続けていた。皇太后のラクシャは幼い皇帝の側にいつまでも寄り添い、その頬を、髪を撫で擦って慰めた。
「母様」
すっかり日が落ち、深夜にさしかかろうという頃、皇帝は母親の膝にうずめていた顔を上げた。
「なあに?」
皇太后は優しく問いかける。
「母様の書記を貸してください」
「なにをする気?」
「いいことを思いついたんです」
泣き腫らした目をして笑ってみせる。その顔が母親の胸を刺した。
「いいわ。バラダになんでも言いつけなさい」
皇太后は息子の髪を撫でつづけた。
全く自然に目が開いた。まどろみの中で、ナープラの泣き声を聞いたような気がする。祖父に殴られた当日こそ大騒ぎをしていたが、翌日にはすっかり機嫌をなおしていたことを思い出して、ようやく夢と現実の境界がはっきりしてきた。
そのままぼんやりと宙を見つめていた皇太后は、部屋の入口に下げられた薄布の擦れ合う音に顔を上げた。布一枚隔てた向こう側に、人影がある。
「誰?」
ラクシャは尋ねながら、今まで横たわっていた長椅子の上で身構えた。部屋の中には誰もいない。狼藉者かもしれない、という思いがかすかに頭をよぎる。
「お休みの所、申し訳ありません。緊急の用件があって参りました」
ラクシャの肩から力が抜け落ちていった。
「入りなさい」
薄布を掻き分けるようにして、書記のバラダが姿を見せた。ラクシャの胸に新たな疑念が浮かぶ。皇帝個人の住まいである内宮に自由な出入りを許されている宦官とは言え、付き添いの女官のいないときを狙って皇太后の私室に現れるなど普段ならば考えられることではない。
「どうしたのです?ナープラの用事を言いつかったのではないのですか?」
宦官は床に跪き、皺だらけの顔を歪めた。
「今日はお暇乞いに参りました。長年の忠勤を是非ご配慮いただきとうございます」
ラクシャは寝椅子から立ちあがり、一歩バラダに歩を寄せた。
「何があったのです」
「いえ、何も」
実際の年齢よりも老けて見える小男は、答えながら身を縮めた。
「嘘をおっしゃい!ナープラは…、陛下はいったいあなたに何をさせたの?」
貴人は語気を荒げた。
「お答えするわけには、まいりません」
皇太后の書記を勤める宦官は、顔を伏せながらもはっきりとした口調で拒む。
ただ頭を垂れる書記を、しばし無言で睨む。バラダは自分の意思で宦官になった自由民だから、奴隷と違って無理に引きとめる事はできない。だがこの忠臣が突然自分の元を去ろうとする、その理由は確かめておかねばならない。
「理由も聞かずにあなたを辞めさせるわけにはいきません。どうしても言わないのであれば、拷問させてでも聞き出しますよ」
バラダは額を床につけた。
「なにとぞ憐れに思し召し、願いをお聞き入れ下さい。皇太后様の許を去ること、けして本意ではありませぬ。それでもこのままでは命が危ういのです」
皇太后は言葉を失っていた。床に平伏する男は、目で見える程に体を振るわせながら、自分の言葉を待っている。
「何があったのです?」
なんとか威厳を失わぬ口調で問う。
「申せません」
「ナープラはあなたに何をさせたのです?」
「話すことは禁じられております」
らちがあかない。
「あなたが辞めたいというのも、命にかかわるというのも、ナープラのところでしたことのせいですね」
「左様で」
もうこれ以上この宦官から話を聞き出すのは無理だろう。あとはナープラに直接ただしてみるしかない。
「わかりました。これからいったいどうするつもりなのです?」
皇太后は寝椅子の上に腰を落とした。
「大河を渡り、瞑想者の森に入ろうと思います」
「そうですか。長年よく働いてくれました。元気でいることを願っていますよ」
「勿体無いお言葉、ありがとう御座います」
バラダはもう一度、頭を下げた。
「ああそうだ」
皇太后は寝椅子の傍らに置かれた台の上に手を伸ばした。
「着の身着のままでは大変でしょう。落ちついたら、これを市場ででも売りなさい」
差し出したのは、翡翠の首飾り。小さいけれど繊細で手の込んだ細工が一面に施してある。
書記が礼を言って首飾りを受け取り、しきたり通りの礼を繰り返して退出すると、皇太后は寝椅子から立ちあがった。一刻も早く、息子を問いただす必要がある。
皇帝は庭園を見晴らせる回廊にしゃがみこんで、草木や水面が照り返す光を眺めていた。美しい景色と、眠気を誘うような暖かい日差し。皇帝が久しぶりに笑顔を浮かべているのは、それだけのせいではなかった。またお気に入りの奴隷が傍らに座って、皇帝の髪を手入れしているからでもなかった。押さえつけてもこみ上げてくるような笑い。こんな気分になったのは久しぶり。今日はとても気分のいい日だ。
大きく伸びをすると、髪を引っ張らないようあわてて手を離す奴隷、それに回廊を伴も連れずに歩いてくるラクシャが見えた。これはまた何かお小言かな。足早に近づいてくる歩調と表情から、張り詰めたものが感じられた。その場から逃げ出したい気持ちを押さえ、何気ない態度を装う。僕は皇帝だ、誰からも逃げない。そもそも誰からも、怒られたり叱られたりする筋合いはないんだ。
「陛下、お話があります」
「何でしょうか?」
皇宮の中でも臣下が取り次ぎなく入ってこられる外宮ゆえ、皇帝も皇太后も丁寧な口調で話す。皇太后の厳しい顔に対し、皇帝は立ちあがって笑顔を浮かべて見せた。
「人目のないところで」
「ここではいけませんか」
「人目のないところで」
皇太后はもう一度繰り返す。
「ここでお話しましょう」
ナープラとしては人目のあるところなら厳しく怒られることはあるまいと思っただけなのだが、この抵抗はますますラクシャの怒りに火をつけただけのようだった。
「ならば人払いを」
ナープラは無言で奴隷に去るように指示し、見えなくなるまで目で追った。
「バラダにいったい、何をさせたのです」
「あれが何か言いましたか?」
「何も。ただ先ほど暇が欲しいと言ってきました。瞑想者の森に入るのだそうです」
「僕のせいだって言うの?」
ラクシャは黙って頷いた。
「臆病な奴だなあ。うまくいったら、褒美をやろうと思っていたのに」
「どういうことなの?」
「内緒」
「言いなさい」
ナープラは母親の厳しい言葉に、微笑みを返した。
「母上、皇帝に対する礼を失っておられますよ」
皇太后は顔を怒りに紅潮させ、半ば宙に浮かせた右手を震わせた。ナープラは笑いながら会釈をする。
「もう仰ることがないのでしたら、これで失礼します」
「待ちなさい!」
「臣下の目のあるところで、そのような言葉遣いはお止めなさい」
ナープラは言い捨てて、母親の側を離れた。幼い頃、繰り返し母親から言われ続けた言葉を、投げ返すことができて満足だった。
だが、母親はあきらめなかった。急ぎ足で息子に歩み寄り、その腕を掴んだ。
「お待ちなさい」
振り返るナープラは、もう笑顔ではなかった。
「僕は皇帝だ。何をしたって、誰にも文句は言わせない!」
腕を荒々しく振りほどかれたラクシャは、着物の裾を踏み、焼き煉瓦の廊下に倒れこんだ。皇帝はそれには一顧だにせずに、その場から立ち去る。
「待ちなさい。あなたの命にかかわる事かも知れないのですよ」
倒れたまま息子の背中に投げかけられた母親の声も、ナープラを振り返らせることはなかった。
ハジャルゴは自室の敷物の上で、麻布に記された書状をもてあそんでいた。召使に続いてネ・ピアが姿を現すと、席を勧めるのもそこそこに、その書状を手渡した。
「何だね、これは?」
「密勅です。今朝、陛下の召使が届けに来ました」
ネ・ピアは、巻物の形になった書簡を広げた。
「何と…!」
「おや、ピア殿のところにも同じ書状が行っているのかと思っておりましたが」
驚きを隠さないネ・ピアに、ハジャルゴが言う。
「いや」
ネ・ピアは首を振った。顔は青褪め、言葉もないようすだ。
「反ジャイヌ派、と言えばわたしと、ピア殿、ということになっているのは、陛下もご存知の筈なのですがねぇ」
「そなたが最近、ジャイヌの目を盗んでは陛下のご機嫌伺いに通っているとは、聞いておるぞ。その成果ではないのか」
「かもしれません。ですが、あれほど気を使って、このような命令を受ける羽目になるとは。まったくとんだ骨折り損ですよ」
「そうとは限るまい。うまく利用すれば」
「利用?まさか!なんの下準備も無く、ただ陛下からの勅令があった、というだけでこのような大事に踏み切るわけにも行きますまい」
「では、どうするのだ?陛下からの勅令、放っておくわけにもいかぬだろう」
隣り合う部屋からの物音に、ネ・ピアは慌てて皇帝の書簡を巻き取った。ハジャルゴの召使が三人、飲み物を運んできたのだ。
「ご苦労」
ハジャルゴは事も無げに言って、女たちを下がらせた。
「無用心だぞ」
ネ・ピアが押し殺した声で言っても、ハジャルゴはそ知らぬ顔である。
「別に見られて困るものでもありますまい」
ネ・ピアは書簡とハジャルゴを交互に見た。
「おぬし、正気か?」
「勿論」
ハジャルゴは今にも笑い出しそうな声。
「陛下はここでのやり取りを知ったところで、何もできやしない。ジャイヌにはできるけれど、わたしたちはジャイヌに不都合な事はなにもしないわけですから」
ハジャルゴの客はもう一度、家の主人と巻物を見比べる。
「まさか」
「当然でしょう?こんな見込みの薄い計画、はっきり言えば子どもの思いつき。こんなものにのって危険を冒せますか?かといって、この書簡を受け取りながら何もしないのも、危険過ぎる。となれば、もうすることは一つしかない」
ハジャルゴはまたしても客人に笑いかけた。
「せっかく皇帝を手なずけていたのがふいになるのは残念ですが、ちょっとした見物ではありますよ。皇帝が自分を殺させようとしたのを知ったジャイヌがなにをするのか。もし利用すべき機会があるとすれば、むしろその時でしょうしね」