《小説》食屍鬼の娘
ご注意
・この作品は前近代的な身分差別をテーマにした小説のため、幾つも強い表現が出てきますが、作者はあえて使っているのでご容赦下さい。
・この小説は一万年物語と題した、架空世界の一万年の歴史を綴る連作の1篇ですが、他の作品とはほぼ独立した小説です。広い意味ではファンタジーでしょうが、魔法などは登場しません。
・創作大賞応募作ですがオールカテゴリ部門で応募しますので、ファンタジー小説部門で必須のあらすじは割愛させていただきます。
1
硬く冷たい土に鶴嘴が打ち込まれる。砕かれた地面は鍬で取り除かれる。鶴嘴が大地を砕き、鍬が穴を広げる。農地として耕されたことのない村と村の間の土地は、草の根の間にからめとられたごろごろとした固くて脆い土の塊となって、鍬の刃先から転げ落ちる。二度、三度。鶴嘴は地面を砕き、鍬は土を刻み草の根を断ち切る。
鶴嘴をふるうのは小柄な初老の男。顔にも腕にも深い皺が刻まれている。鍬を使うのは若い娘。二人は慣れた手つきで黙々と仕事をこなしていく。乾いた晩秋の風が、二人の肌を撫でて吹き去っていく。
村から葬列がやって来る頃には、父と娘は仕事を終え、少し離れた木の根元に腰を下ろしていた。葬列と言っても四人の若者が棺を担いでやって来ただけで、他には付き添いの一人もいない。
若者たちは無言のままロープを使って棺を墓穴の底に下ろすと、そそくさと帰路につく。途中、一人が墓掘りの父娘に気づいて一瞥するが、すぐに目をそらして知らぬ振りをして立ち去った。
若者たちが見えなくなると、父と娘は立ち上がって墓穴を埋め戻す仕事にかかった。土が棺の蓋を叩く音も、いくらか手を動かすうちに聞こえなくなる。埋め戻した土の表面を鍬の刃先で均すと仕事は終わり。荷物を手早くまとめて、父娘はそそくさと家路につく。墓地の上を風が吹き抜けて行く。真昼というのに薄暗い日差しが、間もなく冬が訪れることを告げている。
2
木の扉を叩く音。父娘は顔をあげる。娘のリズが立ち上がって戸口に向かった。二言三言交わして戸を開ける。領主のザーラ男爵が大きな籠を、更に二人の男性がそれぞれ木箱を抱えて戸口をくぐった。
「おや、頭をどうしたね」
領主は父親の頭に巻かれた包帯を見て、声をかけた。
「帰り道で石を投げられました。子どもに」
はぐらかそうとする父の声を遮って、娘が声をあげた。
「父のことをグールと罵って、石を投げてきたんです。いっぱい血が出ました」
領主は顔を歪めた。
「おお、そうか。ジャン、いつもながら苦労をかけるね」
領主は父親に歩みより、額を撫でた。
「領主さまからのご恩を思えば、これぐらい何でもありませんよ」
「それでもこの件については、別口でお見舞いさせて貰うよ。今日のところは、この荷物を確かめておくれ」
笑い交わし会う初老の男たちを、セザールは居心地の悪い思いで見ていた。父は小領主とは言え、ザーラ郡の五か村、二百五十戸を領地とする。それが賎民とされる墓掘りの男とこれほど親密なのはどういう訳だろう。今日は村に弔いがあったとのことで、領主は墓掘りを労いに来たのだ。持参した籠には大量のパンとチーズ。木箱にはワインの瓶、果物、いくらかの銀貨、衣類まで入っている。
領主と墓堀りの奇妙な談話はしばし続き、やがて3人は帰路についた。
「叔父上、グールって何です?」
セザールは馬車の手綱を取るマーカスに訊ねた。
「グールってのは食屍鬼だ。墓を掘り返して死体を貪る化け物だよ」
「何であの人がグールと罵られているんです?」
言葉と言葉の間を、車軸が軸受けの中で回るがらがらという音が埋める。
「まあ、墓と死体に関わる仕事だから、だろうな。お前は小さい頃からずっと都会の学校にいたから知らないでも無理はないが、この地方は死者を穢れと見る度合いが強いんだ。人が死ねばさっさと棺に突っ込んで墓穴に下ろして、できるだけ早く村に帰る。墓掘りは村の男ではなく、村と村との合間に住み着いてる賎民の仕事だ。元々賎民と蔑まれているところに墓掘りの仕事で更に嫌われて、視界に入るのもおぞましい存在と思われているわけさ」
「酷い話ですね」
車軸は軸受けの中で躍り、車輪は轍の中の起伏に合わせて馬車を跳ね上げる。
「そう、酷い話だ。だが生涯ほとんど村の外へ出ない領民たちは、自分が酷いことをしていることにも気づけない。俺も他所の地方で暮らしてみるまで、気づけなかった。他の地方ではまるで相手が生きているかのように話しかけたり、最後にと言って一晩寄り添ったり、死んでしばらく経った後に墓参りしたりすると知った時は驚いたもんだ。そういう地方では墓掘りは平民の仕事だったり、専門の墓掘りがいなくて死人の出た村の男たちで掘ったりする。つまり普通の仕事なんだな」
セザールは黙って道の先に目を向けた。叔父の言葉を反芻し消化する。
「何とかしてあげられないんでしょうか?真面目に働いて罵られるのでは、あの人たちもやってられないでしょう?」
「だからああして、領主自ら労ってやるのが大事なんだ。充分な報酬に加え、領主が自ら感謝の意を伝えて自尊心を持てるようにしてやるんだ」
「いや、そうではなく!」
セザールは思わず声を荒げ、慌てて再び声を潜めた。
「あの人たちが賎民だと蔑まれない方法は無いのかと言っているんです。叔父上が見てきたという他の地方のように、普通の村人としてあの人たちが生きていけるようには出来ないのかと」
「あー、そりゃあ無理だ」
叔父のなげやりな口調に、セザールは気分を掻き乱されるのを感じた。
「なぜ、そんなことが言えるんですか」
「それができるなら、兄貴がとっくにやってる筈だ」
マーカスは馭者台の隣に座るセザールの顔を覗きこむ。
「お前が感じた憤りは、きっと兄貴も感じているんだ。だからこそあんなに丁寧に、墓堀りを労っているんだ」
蹄の音、車輪の音、車軸の音。馬車は道の起伏に合わせて左右に揺れ、時折跳ね上がる。
「これからゆっくり何年もかけて田舎の現実ってヤツを教えてやる。兄貴と二人がかりでな。良い領主になれ。領民が皆ほどほどに幸せなら、諍いは少なくてすむ」
セザールは黙った。だが納得したわけではなかった。
3
領主の館での食事が終わってセザールが自室に引き上げると、広間には領主とマーカスが残った。
「お前が戻ってきてくれて助かった。2人がかりならあいつをしっかり鍛えてやれるだろう」
領主は言いながら錫の盃から葡萄酒をあおる。酸味を帯びた液体が喉を焼きながら滑り落ちていく。
「あれは有望だが、まだまだ現実がわかってない。地に足が着くまでには、ずいぶん青臭いことを言って困らせてくれるだろうよ」
マーカスは料理の肉汁が染みたパンを千切り、酒で流し込んだ。
「さては早速議論を吹っ掛けられたか?自由やら平等やら、儂も若い頃は随分かぶれたもんだ」
「兄貴の若い頃に比べりゃ、まだ大人しいもんだ」
兄弟はくつくつと笑いあう。
「あいつが儂を無学な田舎親爺だと思っているなら、ちょっとばかり驚かせてやるさ。進歩主義なんてお前が思っているほど新しいものではないのだぞと思い知らせてやるのも一興だろう」
初老の領主は笑顔の奥から酒の香りの息を吐いた。
4
セザールは自ら手綱を取って、森の中の小道を辿った。先日、父と叔父に連れられて来た墓堀りの家を再び訪ねるのだ。今日は荷馬車ではなく乗馬で向かうので、悪い道のせいで馭者台に尻を跳ね上げられることはない。
森が途切れ、陽光が目を射る。ここまでの道のりのせいで、薄暗いはずの秋の陽もひどく眩しく見える。
小さな家を囲む狭い畑に、娘の姿が見えた。
「リズさん、ごきげんよう」
リズは戸惑う様子を見せながら、セザールを迎えた。
「若様、おはようございます」
「ああ、あまり畏まらないで下さい」
セザールは下馬しながら、領主の息子をどのように迎えるか戸惑う様子の娘に笑いかけた。
「お父様のお加減はいかがですか?父からの見舞いをお持ちしました」
家の中に招じ入れられたセザールは、荷物を卓の上に置いた。
「お持ちした薬と包帯が無駄になれば良いと思っていましたが、そういう訳にもいかなかったようですね」
「いえいえ、もう血は止まったと思います。お気遣い、本当にありがとうございます」
老爺と言って良い風体の男は椅子から立ち上がってセザールを迎えた。
「それではこちらの包帯と薬は、いざという時のために置いておいていただけばいいでしょうね。父は代わり映えしない物で申し訳ないと言っていましたが、果物とパン、腸詰とベーコンも入っていますので、是非お召し上がりください」
和やかだけれどもよそよそしい会話がしばらく続く。会話の途中で何気なくリズに視線を遣ると、娘は慌てて目を伏せた。
落ち着かない時間が過ぎ、再び馬に揺られて帰途につく。墓堀りの家への小道から村と村を繋ぐ道に出ると、幾人かの領民がセザールに目を向けた。彼らの視線を背に受けながら、館へと馬を進めた。
5
領主の館は石材をたっぷり使った古い様式で、一階の床は切り石だった。天井と2階の床を兼ねる板材以外に木材は見えず、積み重ねた石材に漆喰を塗った壁がランプの光を受け止めている。
空気が冷たい。冬がゆっくりと夜の闇の中から、灯で照らされた室内へと忍び込んでいる。
領主は疲れた体を椅子から引きはがすことができず、深く腰掛けたまま物思いに耽っていた。ここ何日も領内の村々を廻り、冬支度に滞りがないか見て回っている。冬に備えて豚を潰し、羊を潰し、ベーコンを燻し、腸詰を燻し、木の実や茸を拾い集め、川魚を干す。家々を修繕し、薪を集め、井戸の水位を測る。領民の冬支度に不足があれば、直ちに領主が手配しなくてはならない。まとまった取引だから、相手は町の大商人になる。時には春の小麦の収穫を担保にせねばならぬ時もあって気が抜けない。
それでも今年は使用人に手紙を持たせるだけでなく、マーカスを直接交渉に向かわせることができる分、いつもの年より楽ができている。跡取り息子の教育のために呼び戻された領主の弟は、今まであちこちの領地で代官を務めてきた。時々は会って話をすることもあったが、実際にその仕事ぶりを近くで見るのは今年が初めてだった。弟は期待の上をいくやり手に育っていた。息子を二人がかりで鍛えれば、家も領地も安泰。後は二人にちゃんとした嫁を見つけてやるのが、自分の務めであろう。
そこまで考えた時、身が震えた。部屋に忍び込んだ冬の寒気が、食卓の下を漂い領主の足をそっと撫でたのだ。もう寝室に下がらねばならない。部屋を暖かくして床につき、厚い寝間着と毛布で身を守らねばならない。この冷たい広間でほろ酔い気分で微睡んだりすれば、きっと風邪をひいてしまう。立ち上がらねばならないことはわかっていても、気力が湧かない。立ち上がりさえすれば全て滞りなく済まして眠ることができるのに、その最初の動作が儘ならない。それは酒のせいでもあり、部屋の冷たさのせいでもあり、また日頃の激務で溜まった疲れのせいでもあり、そして何より容赦なく身を蝕む老いのせいだった。
領主は若き日を思った。大酒を飲んでも平気だった。書物に夢中になり、いつの間にか朝を迎えても平気だった。あのような事はもうできない。できる日は二度とこない。
寒気が脛から腿までを撫でながら這い上がって、領主は再び身を震わせる。掛け声をあげて立ち上がり、ようやく寝室へとむかう。酔いのために少し足を縺れさせながら、ランタンに火を入れ卓上の燭台を吹き消す。寝室へと足を向けた途端、寒気が今度は腰から首まで一気に背中を撫で上げた。領主の体は激しく震え、歯が立て続けに打ち合わさって音をたてる。
まずい、完全に風邪をひいてしまった。冷たい部屋で深酒がすぎた。後悔する間にも、寒気は体の表面を撫でるだけでは飽き足らず、布に水が染み込む様に、肩や腕の肌から肉の内へ骨の内へと入り込んできた。早く早く寝床に入らねば。足を進めようとするが、体は重く、一歩はあまりに遅い。
冬の寒気は遂に領主の心臓を鷲掴んだ。激しい痛みに胸を押さえる手が、信じられない力で握られる。掌に爪が食い込むほどだが、胸の痛みにかき消されてその痛みは感じない。痛い、痛い。ランタンが石畳の床に落ち、ガラスの砕ける音がする。こめかみが脈打ち、氷の様に冷たい額を氷の様に冷たい汗が伝い落ちる。息ができず二度三度と口を開け閉めしても、助けを求める言葉を出すことができない。
やっと息子と暮らせるようになったのに、まだ教えねばならないことが数え切れぬほどあるのに。
顔に、胸に、腹に冷たく固く大きなものが押し付けられる感覚があった。それが切り石の床だということを理解することはなかった。
6
マーカスは葬儀の手配に駆けずり回って、当日になっても休むことができなかった。まともな葬式をしない地方であっても、棺桶を誂えたり、棺を運ぶ者を選んだり、そして書類、書類、書類、手紙、手紙、手紙だ。悲しむ暇もありはしない。
領内の人間だけの葬式なら、この地方の流儀で墓穴に埋めてそれで終わりだが、小なりとは言え領地を持つ貴族の代替わりは様々な手続きが伴う。マーカスは無数の手紙を書き使者に持たせ、全ての手配を終えたら自分が帝国の監察官のいる地方都市まで出向かねばならないのだった。
屋敷から領主の棺が運び出される様を、セザールは僅かに開いた扉の隙間から見送った。この地方の流儀では、父の遺体を堂々と見送ることは許されない。館で一番地位の低い使用人が、さっさと遺体を運び出す。今回は年少の使用人4人が棺を運んだ。
父は朝の冷え切った広間の床で冷たくなっていた。最後の言葉を交わすこともできなかった。それなのに父の遺体の手を取ることも、人前で悲しみを見せることもできないのだという。この土地の葬送の流儀はあまりにも冷たく、人間味に欠けるように思えた。
「これで葬式は終わりだ。俺は街に出て監察官に代替わりの報告をしてくる。喪が明けたら正式に領主だが、それまでには大きな仕事はないだろう。10日ほどで戻れると思うが、何かあれば家令に相談するようにな」
叔父はそう言い残して馬に跨って出ていった。
セザールは自室まで戻る気力もなく、広間の椅子に腰を落とした。酷く疲れて全身が重く感じられる。肩とこめかみに強張りを感じた。しばらくすると頭痛が始まるかもしれない。崩れそうになる上体を膝の上についた肘で支え床を見つめる。
セザールが感じているのは悲しみよりも徒労感だった。学校を卒業し、幼い頃に離れた馴染みのない故郷に呼び戻され、父の後継ぎとして田舎の小さな所領の経営を引き継ぐ覚悟を決めてやって来たのに、父はいくらも言葉を交わさぬうちに亡くなってしまった。あちらこちらの村々でその地の領主に代わって農村の采配を取り仕切ってきた叔父が居れば問題はないとは解っていても、一歩を踏み出したばかりの躓きは青年の心に大きな不安を植え付けてもいた。
昼食の用意を始めていた小間使いに、温かい飲み物を頼む。不安ばかりが大きくなるのに、すべき事が見つからない。何か任されている仕事があれば、この不安も紛れるだろうに。そう思った時、セザールは一つ仕事を思い出した。紛れもなく父から受け継いだ仕事であるし、父の思い出を共有できる相手と過ごすのは良い気晴らしになるだろう。
7
なんだこれは。若殿に同行して驢馬を引いてきた若い召使は、荷を下ろした家で居心地の悪い思いをしていた。そもそも墓掘りの家になど、近づくのもはばかられるのだが、若殿のお供とあらば仕方ないと付いてきた。若殿もなんだってこんなところに来るのかと訝しんで家に入れば、墓掘りの家は小ぎれいで村人たちよりも上等な暮らしをしているように見えた。若殿が運んだ籠からはパンとバター、干し魚。召使が運んだ木箱からは、チーズと野菜、果物、衣類、そして銀貨。それは現金収入の乏しい村の百姓たちが必死に働いた稼ぎの半年分より多く見えた。
「これは大殿の上着ですか」
「そうです。普段使いには向かないでしょうが、父の遺品をジャンさんにも持っていてもらいたくて」
墓掘りは大殿の上着を少し検めたあと、袖に腕を通す。いったい何の権利があってそんな大それたことをしているのか、召使には全く理解できない。
「こうすると、大殿が本当に亡くなってしまったのだと思い知らされます」
「父が死んで涙を流してくれたのは、あなた方だけです。この地の文化だというのは解っていても、皆がとても冷たいように感じられて・・・」
若殿と墓掘りは抱擁して涙を流した。
何もかも間違っている。召使は心臓が激しく打ち、息が苦しくなるのを感じた。何もかも間違っている!何故賎しい墓掘りが、若殿と親しげに抱き合っているのか。死者の為に涙を流したり悲しみを露わにすれば、死者の魂は迷って生者に災いをなすのは子どもでも知っているのに、何故この二人は抱き合って泣いているのか。
召使はセザールの訪問が終わるまで、身動きもせずただ立ち尽くしていた。
8
リズが父と自分の食器を片付けていた時、家の戸を叩く者があった。夕暮れの陽射しが赤みを帯びているとは言え、まだまだ明るい時間故、ジャンはためらいなく戸を開けた。
鈍い音。リズが音の方に顔を向けると、戸口には顔を布で覆った数人の男たちが見えた。続いて目に映ったのは、床に倒れている父、そして血だまり。先頭の男の手には手斧。血の滴る手斧。
顎が痺れ、声を上げることができない。足が竦み、逃げることもできない。男たちは手斧を構えたまま、怒号をあげて駆け寄って来るのに、リズは力なく床にへたり込んでしまった。涙でにじむ視界の中、先頭の男が迫る。男の手が肩にかかった時、リズは全てを諦めていた。
9
目が覚めると、周囲は既に暗くなっていた。リズは自分がまだ生きていることに少し驚いた。全身が痛かった。腕一本、動かすこともできなかった。身じろぎもせぬまま、思考だけが回り続ける。これはいつか起こるべきことが起こったのだ。自分たちが賎民として、墓掘りとして見下されている以上、こういうことはいつかは起こることだった。今まで守ってくれた領主様が亡くなったことで、村人たちの箍が外れてしまったのだろう。両腕が、両脚が、肩が胴が、全てが痛い。父さんはどうなっただろう。自分と同じように、怪我をして身動きできずにいるのだろうか。脈拍に合わせてこめかみから血が出るのを感じる。全身が痛い。再び意識が薄れ、何も考えられなくなる。
また目を覚ます。全身が痛い。周囲は真っ暗で何も見えない。全身が痛い。手斧から血が垂れている光景を思いだす。父さんはきっと助からないのだろう。全身が痛い。涙が目からこぼれて熱い。胸が震えて息ができない。全身が痛い。
何度か気絶と覚醒を繰り返すうちに朝になった。手足の先が朝日に温められるのを感じる。頭を光の方に向けると、東側の窓が壊されて陽が直に差し込んでいた。左目は開かない。怪我で腫れているのか、血で瞼が固まってしまったのか、それとも潰されてしまったか。
長い時間をかけて手足に力を入れ、何度も崩れ落ちながらも、ようやく家具にしがみついて立ち上がった。よろよろと歩を進める。幸い脚は折れていない。父は家の入口で横たわったまま。粘つく大量の血に覆われてもなお、頭が大きく抉れていることがわかる。
泣いてはダメ、一度間違えたのだからもう間違えてはダメ。リズは下唇を強く噛むと、原型をとどめていない衣服の上に膝下まである外套を羽織って家の外へと歩を進めた。
10
セザールは賓客の応接に使われる部屋で、椅子の前に立って5人の男と相対していた。領内5か村の代表たちは椅子を勧めても座ろうとせず、部屋の入口近くで一塊になっている。おかげでセザールは座ることもできずに、半端な姿勢のまま話を始めなくてはならなかった。
「昨日の手紙でお願いしたことについて、お話があるとのことでよろしかったですか?」
昨日、セザールは墓掘り人のジャンと娘が襲われた事件の後始末について、領内の村々に手紙を持たせていた。内容はすぐに街からやって来る警吏の取り調べに協力すること、警吏が来る前でも何か犯人についてわかることがあれば教えること、そして死んだ墓掘りのために葬儀を分担して行うことをできる限り丁寧に依頼したものだ。
「この手紙には俺たちに、墓掘りの墓を掘れと書いてあるそうだな!?」
セザールは男たちが最初から喧嘩腰であることに戸惑っていた。叔父が不在なのは心細いが、当主としてここは無事収めなくてはいけない。
「ええ、ジャンさんは亡くなってしまいましたので、誰かにやってもらわねばなりません。慣れない仕事でご迷惑をおかけしますので、手紙に書いてある通り日当もお出ししますし、賦役も今年いっぱい免除とさせていただきました。かなり大盤振る舞いのつもりでしたが、ご不満ですか?」
「そういう問題ではないんだわ」
5人の中心に立つ、大柄な若い男が一歩進み出て声を荒げる。
「墓掘りは賎民の仕事と昔から決まっとる。墓掘りが居ないんなら、別のを探してくるのが領主の務めだろうが!それを怠けて俺らに墓穴を掘れたぁ、どういう了見だって言ってるんだ!」
気圧されてはいけない。侮られてはいけない。セザールは平静を装う。
「了見も何も、ただ穴を一つ掘るだけのことですよ。他の農作業と比べても、大した手間ではないはずです。それを村の外に住んでいる方々の仕事と決めつけるのは、非合理的ではありませんか」
男は更に2歩前に進んだ。手を伸ばせば触れることのできそうな距離に、セザールは怯んだが、表情には表わさぬよう必死で冷静を装う。
「たかだか下級貴族がお高くとまりやがって!お前らがそうやって見下している俺ら百姓だって、百姓なりの誇りがあるんだって話をしてるんだ!俺たちは墓穴なんぞ掘らねぇんだ」
セザールの意識にリズの顔が浮かんだ。父親が食屍鬼と罵られ石を投げられたと訴えた姿が。
「あなた方を見下したりしていません!農民には農民の矜持があると語るあなたが、なぜ墓掘りには墓掘りの矜持があると思い至らないのですか!ジャンさんだって村の人と同じように尊重され、同じ様に弔われる権利があるは筈です」
「あるかよ!そんなもん!」
相手はその一言の間に更に数歩進んだ。セザールの耳のすぐ下で、石か何かを擦り合わせるような音がして、肩に何かがぶつかった。相手が自分に馬乗りになって初めて、自分が殴り飛ばされ床に叩きつけられていたことを理解した。
となりの部屋に控えていた3人の召使が飛び込んで、男をセザールから引きはがした。もう二百年も求められていない貴族の古い義務に備えて「小姓」「盾持ち」「馬廻り」という古めかしい名前の役職を与えられた男たちは、そのまま5人の村人たちと揉み合いになった。
セザールはその間に部屋を文字通り這い出して、外にいた使用人に3人に加勢するように命じた。幾人かは気乗りしない様子で部屋に入り、また1人はセザールに手を貸してセザールの自室へと付き添ったが、幾人かはその場でまごついているばかりだった。
11
館で狼藉を働いた男たちは、街からやって来た警吏たちに取り押さえられた。昼頃やって来るはずだった街の役人たちが、一刻ほど早く騒動のさなかに到着したのだ。一行には更にマーカスも同行していた。
「やってくれたな、領主さまよ」
叔父は苦笑いしつつ、寝台に横たわるセザールに言った。濡らした布を腫れた左頬に押し当てながら、セザールは壁を見つめていた。
「後始末は俺に任せて、お前は養生しろ。ちょうど街から医者を呼んでるところで良かったな、明日には医者に診せられる。頬以外に痛むところがでてきたらすぐに言えよ」
マーカスは言いながら、セザールに背を向けた。
「何が、いけなかったんでしょうか」
ふり絞るようにしてそれだけ言葉にする。
「何もかも、と言いたいところだが、まだわからん。これからそれを調べるんだ」
再びセザールに向き直るマーカスは、微笑みを浮かべていた。
窓を透かして星が見える。深夜と言うのに眠くない。セザールは息を吐いた。
叔父は自分を責めなかった。それどころか、笑顔で子どもに教え諭すようにふるまった。目に涙がにじみ、嗚咽が口から零れる。もし屈辱で心臓が破裂するのなら、皆が自分の気持ちをわかってくれるだろうか。嗚咽、嗚咽、そしてセザールは激しく嘔吐いた。
12
二日経って顔の腫れは引いた。墓掘りの老人は、ちゃんと埋葬された。屋敷に押し掛けた5人が逮捕されて、村人たちは渋々遺体を棺に納めて墓穴を掘って埋めたのだと聞いた。
鏡で顔に腫れも痣もないことを確認すると、セザールは身なりを整え屋敷の一室に向かった。襲われて命からがら領主の屋敷に助けを求めた墓掘りの娘が療養してるのだ。
あの日は酷い怪我をしているという事で、顔をあわせることはできなかった。そのまま自分も怪我をしてしまったので、今日までリズを見舞うことはできていなかった。
ふたりで洗濯物を運んでいる小間使いを呼び止めて、リズを見舞う事ができそうか尋ねた。
「ええ、ええ、大丈夫ですとも。若様が見舞いたいというのを断ることがあるものですか」
二人は何故か笑みを浮かべて目配せしあったが、その意味はセザールには分からなかった。
洗濯物をその場に置いて、小間使いはリズに与えられた部屋まで同行してくれた。先に部屋に入ってリズにセザールの訪問を告げると、小間使いはセザールを招き入れた。
部屋に入ろうとして足が止まった。寝台の上に身を起こしたリズがこちらを見ていた。窓から差し込む陽射しが、乱れ縺れた長い髪を照らしている。落ちくぼんだ眼、こけた頬、白すぎる肌に浮かんだ幾つもの痣。驚いて一瞬足を止めたことを恥じながら、寝台へと歩を進める。
「ごゆっくり」
小間使いたちはにやにやと笑いながら、部屋を出ていった。
体の具合を尋ねながら、椅子に腰を下ろして相手と視線の高さを揃える。力なく笑顔を返すリズの姿が痛々しかった。
「お気遣いありがとうございます。まだまだですけれど少しずつは良くなっていると思います」
「家も酷く壊されてしまったそうですし、当面は館に滞在していただいて大丈夫です。何も心配せず、養生してください」
「ありがとうございます。本当に」
リズの声は震えている。沈黙。互いに次の言葉を紡げずに、しばらくは無言の時が流れた。
「それで、体が治った後のことですが」
セザールは予め用意していた口上を述べ始める。
「学校に通っていた時に住んでいた部屋がそのままになっています。考えたのですが、街に出てその部屋に住みませんか。街に用事がある時に使うので、掃除などしていただける人がいると助かるんです」
「そうですか」
リズは視線を落として、考えを巡らせる様子を見せた。
「都会にも身分差別はありますが、田舎ほど酷くはないでしょう。貴族と平民の差はあっても、賎民と蔑まれることはない筈です」
「それは良い所なんでしょうね」
リズは少し顔を上げて、僅かに微笑む。
セザールは息を吐き、吸い、息を止める。
「実は僕は街に戻ろうと思っています。一緒に街に来てくれませんか」
そう言って、リズの顔を見る。リズの顔には明らかな困惑の表情が浮かんでいる。
「いきなりな提案で申し訳ない。でも体が治るまでに考えておいて欲しいんです」
セザールはできる限りの笑顔をリズに向けた。
「ありがとう・・・、ございます。でも、私はこの土地を離れることはできません。先代様のご恩がありますから」
リズはゆっくりと答える。
「そんなものに捕らわれるのは不合理ではないですか?」
セザールは困惑した。この忌まわしい土地を離れる機会があれば、リズは喜んで出ていくだろうと思っていた。まさか断られるとはつゆほども思っていなかった。
「不合理でもなんでも、今の仕事を放りだすことはできません。それは自分に許すことができません」
「何故・・・?」
セザールの問いは呟きと言うにも小さく、ただ思いが口から漏れ出たという様だった。リズはしばらくは言葉なく、組み合わせた両手の指先を見つめていたが、やがて視線を落としたままゆっくりと語りだした。
「父は飢饉で食べることもできなくなって、母も亡くして、生まれた村を離れたそうです。私が物心ついたときには流民として、毎日食うや食わずで過ごしていました。農繁期には多少怪しい者でも手伝わせてくれる村もありましたが足元を見られて、冬場にはそれもなくて。父は私の食べ物のために人を殺めたこともあったんです。だから今回のことは当然の報いなのかもしれません」
「そんな・・・、そんなことをおっしゃらないで」
リズの悲痛な声につられ、セザールの目に涙が滲んだ。
「先代様はそんな私たちを迎え入れてくださいました。ご領地に住むことを許していただき、墓掘りの仕事をいただきました。ここに来るまでまともな人間扱いをされず、この土地でも食屍鬼扱いされる私たちに、先代様は優しく言葉をかけてくださりました。今の仕事は先代様から任された大事な仕事です。疎かにしてはいけないものなんです!」
相手の言葉が途切れると、次はセザールが語り掛ける。できるかぎりゆっくりと優しく力強く話すよう努めた。
「リズさん、あなたはもっと幸せになるべき人だ。こんな田舎で尊敬されない仕事に縛られて、そんな扱いにただ耐えるだなんて、そんな人生を送るべき人じゃない。父だってそんなことは望んでいないでしょう」
リズは目を伏せたまま、身動きもしない。
「リズさん、顔を上げて僕を見てくれませんか」
リズは言われるまま顔を上げる。
「リズさん、僕と一緒に街へ行きましょう。こんな所は出ていきましょう。リズさん、使用人が嫌なら、僕はあなたと結婚したっていい。そうだ、僕はあなたと結婚しよう!田舎では許されないかもしれないけれど、都会なら貴族と平民の結婚も無いわけではないんです。お願いです、一緒に街へ行きましょう」
リズは今は真正面からセザールを見つめていた。瞳の奥まで覗き込み、また覗き込まれている様な感覚に、息が苦しく感じた。
「私はあの時、汚されてしまいました。清い体ではありません」
リズは目を逸らすこともなく、はっきりと言った。
「それはあなたの咎ではないではありませんか!」
両手を伸ばして、リズの組み合わせた両手に重ねる。
「どうか変に卑下したり遠慮したりしないで下さい。僕はただあなたの苦労が、今までの辛い思いが報われて欲しいと、心から思っているんです」
リズはセザールに微笑みを向けた。
「ありがとうございます。でも、気持ちは変わりません。父が居なくなっても、私はここで墓掘りを続けます」
理解ができなかった。こんな田舎で埋もれているより、街に出た方が良いに決まっている。なのにこの人はそれを断るという。墓掘りの仕事が大事だからと。そんな馬鹿な!そんな馬鹿な!自分はこの可哀そうなひとを助けるためならと、結婚まで提案したというのに!そんな・・・、そんな・・・。
「わかりました。まだ街へ戻るには日数がありますから、気が変わったら言って下さい。それ以外にもお困りのことがあればなんでも言って下さい。できるだけお力になります」
セザールは言いながら立ち上がり、扉へと足を向けた。
「何から何までありがとうございます。望みに応えられず、申し訳ありません」
リズの言葉を背中で聞きつつ、セザールは廊下に出た。扉を閉め、ふらつく足で二歩三歩進んだが、壁にすがるようにして立ち止まった。こんな筈ではなかった。こんな筈ではなかった。思考はただそれだけを繰り返し、頬を涙が伝った。
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代官が墓掘りの家を訪ねたのは、騒動から一年、若い領主が所領を離れ街に居を移してから半年ほど経った頃だった。庭先で鍬の刃を磨いていたリズの了解を待つこともせず、ずかずかと庭の中に入ってゆく。
「あいつからお前さんに手紙だ。俺が読み上げてやればいいか?」
マーカスは顔より高く、封筒を掲げて見せた。
「いえ、読むだけならできます。子どもの頃、先代様に教えていただきましたから」
「さすが兄貴は抜かりないな。どこぞの青二才とはえらい違いだ」
「辛辣ですね」
マーカスの皮肉につられて、リズも少し笑う。ワインの瓶と驢馬が背負えるだけの薪を家の中に運び込むと、マーカスとリズは椅子に腰を下ろした。
「新しい家は大丈夫か?寒くはないか?」
マーカスが尋ねるとリズは頭を振った。
「領主様にも代官様にも、本当に良くしてもらって、この家も前の家よりも暖かくて快適なんですよ」
リズの家は前の家からは離れた、領主の館にほど近い場所に新しく建てられた。事件に関わって三人の男が吊るされたせいで、村人の協力は簡単に得られた。厳しい取り調べの結果わかったが、セザールを殴った男は墓掘りの家を襲った男の一人だった。マーカスは国の監査官に強く働きかけて、判事が村に来る前に事件の首謀者三人を処刑することを認めさせた。都会では時代錯誤な領主裁判権の行使と騒がれたが、幸いその騒ぎは当の田舎の領地までは届かなかった。
「代官様こそ、私の心配なんかしている場合ではないのでは?お疲れのご様子ですよ」
「ああ、あいつのせいで、剃刀の刃の上で踊るような思いをしてるよ。慎重すぎても大胆過ぎても真っ二つってヤツだ」
二人はしばらく笑い合う。
「まあ、青二才のやることは一事が万事、こんな感じなんだろう。俺の若い頃のことを考えても、いろいろヘマをやったもんだ」
「私が最後に会った時なんて、寝付いていたのに髪を梳かす暇もいただけなかったんですよ」
「あー、それこそ、若造がやっちまいそうなことだ」
「一生、恨みますとも」
二人はしばらく笑い合う。
「そろそろ失礼しないとな。仕事が山の様だ。まあ冬支度の忙しいさなかに兄貴が死んで、あいつがやらかした去年よりは大分ましだが」
言いながら立ち上がりかけて、マーカスは真顔になる。
「それでも、あいつにもう少し堪え性がありゃあ、鍛えなおして良い領主にしてやることができたろうに。領地の収入で街暮らし。まあこちらに口出ししてこなきゃ知った事じゃないか」
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マーカスを見送り別れの挨拶を交わすと、リズは部屋に戻り椅子に腰かけた。セザールからの手紙を裏表とひっくり返して見てから、封を切って開ける。どうせ変り映えのしない手紙だろうと思ったら、案の定前回の手紙とほとんど同じ内容を書き方を変えて送って来ただけだった。
曰く、貴方が墓掘りの仕事に抱いている誇りに思い至ることができず、失礼な事を言ってしまったことを後悔している、許してほしい。
曰く、それでも田舎の仕事に飽いて、街に出てくる気になったら必ず力になるので相談してほしい。
曰く、人には本来、貴族も平民も賎民もない。本当は平等なはずだ。だけど保守的な田舎はあなたを平等には扱ってくれないだろう。街だって天国ではないけれど、田舎よりはマシのはずだ。
リズは手紙を無造作に食卓の上に置く。あの方に奥さんと子どもができた時を見計らって訪ねて行って、昔の約束を果たせと迫ったらあの方どんな顔をするかしら。
「いけない。代官様の皮肉がうつっているみたい」
誰に言うでもなく声に出すと、リズは庭へ足を向けた。仕事道具の手入れが途中だし、まだ冬支度も残っている。まだ日も高い。やることはいっぱいだ。
了
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