見出し画像

七つのロータス 第18章 ラムダ

 第1章から

 監視もなく放っておかれている部屋の、あまりに開放的な造りが信じられずに、ラムダは未だに辺りを見回していた。滑らかな切り石の床。部屋を囲む壁の一面は大きく開いていて、その外側には暖かな光に照らされた庭が見える。部屋の中と、庭を遮る物は何もない。このまま立ち上がって歩いて行きさえすれば、あの庭に下りることができるだろう。そして他の棟や建物の外にまで、そのまま歩いてゆけさえするかもしれ ない。
 将軍に言われるまま、水桶の布で血と砂にまみれた体を拭き清め、清潔な衣服に着替える間、誰一人ラムダを見張るものはなかった。その後も水桶を片付けにきた男から、将軍を待つように言われたきり。あの女将軍はいったい何を考えている?ラムダは、戸惑いから抜け出す事ができずにいた。思えば捕まった直後から、不自然なところはあったのだ。

 馬が苦しんでいた。身をよじり、四肢をばたつかせながらいなないていた。女将軍自らの手当てを受けている間にも、愛馬の苦痛が耳に痛かった。
「ちょっとだけ、時間をくれないか」
そう言って立ち上がる。先に立ちあがってラムダを見下ろしていたパーバティは無言だった。ラムダが短剣を取り出し鞘を払っても、表情ひとつ変えるでもない。女将軍の視線を振りきるようにして背を向けると、愛馬が、隼と名づけ長年草原の放浪を共にしてきた愛馬が、苦しんでいた。左半身を下にしてその体を横たえ、隼はその目を主に注いでいる。その漆黒の瞳には確かに涙がたたえられていた。そして、空中に突き出されたその右前肢。それは膝の部分が砕け、その先が地に引かれるままに垂れ下がっていた。力なく揺れる蹄。ラムダは愛馬に歩み寄る。もう助けられない事は、ラムダ自身が地に倒れ伏してうめいている時からわかっていた。我知らず、顔が歪む。
「すまない、いま楽にしてやる」
隼のしなやかな首を抱きしめる。隼は少し気を落ちつかせて、主の体に頭を預けた。左肩の上に愛馬の重みを感じながら、両腕をその首にまわす。青銅の刃を、手に握ったまま。
「痛かったろう、痛かったろう、なぁ」
ラムダは馬の耳元で優しく語りかけながら、素早く相手の首筋にそえた短剣を引いた。的確な動作で切り開かれた動脈から、鮮やかな血しぶきがほとばしり出る。右腕に降りかかる温かみを感じながら、ラムダは未だにしっかりとした力を宿した隼の首筋、顎の下に、顔をうずめた。震える指先が短剣を取り落としたが、拾おうなどとは思いもしなかった。パーバティの視線が今も自分に向けられている。それはずっと感じていた。だから、隼の体に身を隠す様にうずくまったまま、動きたくなかった。両目の隅に溜まり、今にも流れ落ちそうになっている涙。それだけは見られたくない。

 西日に照らされた殺風景な庭を眺めながら、心は半日前の出来事を繰り返していた。捕らわれの身となった屈辱と不安、そして愛馬を悼む思い…。
「少しは落ちついたかい?」
ラムダは突然の声に、思わず声をあげそうになった。振り返れば、軍装を解いて部屋着姿になったパーバティが立っている。踝が隠れるほど長い裾のゆったりとくつろいだ長衣は、パーバティの歩みに引かれて流れる様。上品な衣を緩やかに身にまとう姿からは、帝国で最も名の通った武人の面影は感じられなかった。
「まあ、座って」
言いながら、パーバティは部屋の中央に座った。大きな敷物の上に胡座をかいて座る様は、質素だけれども上品な衣装や、豊かに波打つ髪にはまるで似合わない。
 パーバティが戸口に声をかけると、二人の男がそれぞれ四角い盆を運んでパーバティの前、向かい合う無人の敷物の前に置いた。男たちは武装していなかったが、その身ごなしから兵士だと知れる。
「いつまで立っているつもりだ」
男たちが引き下がると、もう一度パーバティが座るよう促した。ラムダはますます混乱を深めながらも、言われるがまま腰を下した。
「いったい、これは何の冗談だ?」
酒肴の用意を揃えた盆と、女将軍とを交互に見る。訳のわからない状況に置かれている苛立ちが、そのまま言葉に表れていた。それでもパーバティは悠然と構えたままだ。ラムダの顔を見ながら、手酌で酒を杯に注いでいる。
「捕らえた相手から、色々と聞き出そうというのだ。何も不思議はあるまい」
そしてラムダの顔を正面から見据え、笑顔を見せた。
「どうせなら楽しくやった方がいい。そうじゃないか?」

 パーバティは世間話をする風情で、ラムダの身の上を尋ねた。ラムダとて隠しておくべき秘密があるわけでもない。問われるまま、己の事、部族の事を語る。
 牛の群れを追うキュイ族の元に、ハラート族と名乗る部族から使者が来た事。果てしも無い征服行への協力を求められた事。
「ハラートか、はじめて聞く部族だな」
「俺たちも知らなかった。ずっと東の方から、俺たちみたいな草原の西の果てに住む部族が聞いた事もないような遠くから、渡ってきたに違いない」
「なるほど。ところで帝国の酒ははじめてか?口に合わぬと言う事はないか?」
ラムダは突然話を変えられた事にまごついた。
「大丈夫だ。いけるよ」
「それはよかった」
パーバティはまた自分の杯に酒を注ぐ。間を置くと、また真面目な話に戻っている。
「それで、ハラートの申し出はどうなった?」
「長老たちは断ったよ。農耕民に義理だてするわけではないが、俺たちは略奪が男の仕事だと思うほど野蛮人でもない。馬に跨って牛を追い、チーズを食べ、毛織物を身にまとう。それが、俺たちが理想とする生き方のすべてだ」
パーバティが頷く。ラムダは更に話し続けた。
「ハラート族はたぶん、あんたがた農耕民が『草原の民』について思ってるとおりの連中だろうな。他の部族の持ち物を奪い取る事を恥じない。むしろ誇らしくすら思っている。連中にとっては、他の部族を略奪することは、獣を狩ることと同じ。誇るべき仕事なんだ」
何やら硬い殻に包まれた木の実を手に取って、しばしためらう。一度、毛織物を帝国の領内へ売りに行く商人の護衛をした時、見た事のある食べ物だ。さてどうやって食べるのだったか?
「ハラートの戦力は?」
「そうだな、俺たちが実際に戦ったのは五千くらいだけれども、どうやら連中はハラートの一部だったらしい。全体の戦力はわからない」
ラムダは掌で転がしていた木の実を、器に放り出した。
「キュイの兵力は二千が精一杯だった。俺は他の部族へ援軍を要請する使者を命じられていて、戦いに間に合わなかった」
「それは無念だっただろう」
 突然、ラムダの体が震えた。戦場となった草原に駆けつけた記憶。地平線にかかる夕陽の禍々しいほどに赤い光条。大地に点々と、あるいは折り重なって倒れるキュイの戦士たち。足を滑らせる血だまり。そして…、戦場から離れた場所でひとかたまりになっていたのは、武器を取って戦った者の死体ではなかった。天幕を積んだ馬車は馬ごと奪われたのであろう。そこに残されていたのは、ただ遺骸ばかり。女子どもばかりが、折り重なって死んでいる。辱めを受けるよりは、 と考えたのだろう。互いに胸を突き、あるいは喉を突き…。子どもたちも親の手にかかって…。ラムダは生乾きの血で汚れた大地に、両膝を落とした。ぬかるむほどに血を吸った土に、両手をついて体を支えねばならなかった。
「無念…。俺は武人の名誉はどうでもいいんだ。戦に間に合わなかったことは、仕方が無いと思っている。無念なのは…、守れなかった人たちの事。部族全員で連中の足元に身を投げ出して、命乞いをするべきだったのではないだろうか…、時にそんなことまで思う」
ハラートに協力しなかったのは、協力すると言ったが最後、部族の男たちは戦いに次ぐ戦いの中に投げ込まれ、死ぬより他にそこから逃れる術もなくなる事が目に見えていたから。逃げるのではなく戦いを選んだのは、女子どもに家畜まで連れて逃げねばならぬキュイ族に対して、ハラート族は騎兵だけで追うことができたから。ハラートと接触した時、既にキュイの運命は定まっていたのだ。
 自分ひとりだったなら、きっとあの場に崩れ落ちたまま、二度と立ち上がる事は無かった。生きながらにして朽ち果てていたのだろう。だが自分を頼りにしている部下がいた。だから盗賊に身を落としても生き延びようと思った。
 ラムダは顔を上げた。思考が己の罪に辿り着いたのだ。
「俺はこれからどうなる?」
「そうだな、わたしの権限で死罪は免じることができる。終身の労役というのが妥当なところだろう」
盆の上の器がたてる激しい音。ラムダは我知らず立ちあがっていた。
「断る!そのような恥辱を受けるのならば、潔く死を受け入れる」
パーバティは視線を上げる事も無く、杯を口に運んでいた。
「君たちには、騎兵に稽古をつけてやって欲しいと思っていたんだけど、不満かな。勿論、本当は許されない事だから、名目だけ労役をさせられている捕虜、ということにしておきたい」
ラムダは言葉を失い座る事も忘れて、ただ立ち尽くすばかりだった。

 第19章へ

もしサポートいただけたら、創作のモチベーションになります。 よろしくお願いいたします。