味覚と記憶 | weekly vol.0096
今回はエッセイ風味です。
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「生まれたときからアルデンテ」という本があるが、食に貪欲なひとというのはけっこう多く、食い意地というのはただお腹を満たせばいいというわけではなく、より美味しいものを、より美味しい方法で、と欲深くなっていくものらしい。そして、食べ物の恨みは恐ろしい、という言葉があるが、それほど食い意地の張っている人の執着は凄まじいということだ。実際に、自分のことを反省してみても、食べ物についての記憶以外は曖昧だ。逆に食べ物の記憶は鮮明で、どんなテーブルでどんなカトラリーで、どんなお皿で、どんな香りがしたか、温度までが蘇ってくるような気がする。
物心ついた時、というのがいつかは分からないけれども、小さい時から食べ物への執着は家族の誰よりも強く、自分で食べたいものは自分で作るようになっていた。当時住んでいた地域では外食と言っても観光客向けの洋食屋さんやお蕎麦屋さんが数軒あるくらいで、それも月に一度でも行けばいい方であった。数少ない機会なので、それはそれは楽しみであった。今思えばどうということはない、チキンカツにチーズとシソが挟まれたものも、当時の自分にとっては切った瞬間の感動があった。そして、普段は別々に食べているものを組み合わせて調理することの素晴らしさというものの片鱗がそこにはあったのだろうと思う。記憶の中でのチキンチーズカツは今でも、その時の一番好きな食べ物としての地位は揺らがないし、その後の味覚の形成にも大いに影響したように思う。
人間の味覚というものは5歳程度までで基本の方向性が決まり、10歳程度までで確定すると言われている。そして、味覚というものは記憶と深く結びついている。何の味だか分からないが食べたことがある、という人は経験はあるが味わい方を知らない、というケースだろう。一方で、濃い味、こってりしたものが好きというのは人間の本能的な味覚の傾向、カロリー摂取を主としたエネルギー補給に向いているのだろうと思われる。別に楽しく食べているのであればそれはそれでいいことだと思うので、味わい方を知らないとか、同じ味のものばかりを好んで食べてしまう、ということに恥じる必要はない。ただ、他の物事と同じように、味覚、味わい方にも解像度というものがあり、それを表現するための拠り所となる記憶や語彙がなければ語るに語れないわけで、何が好きで嫌いか、という話に深みが出ないというだけのことだ。再三になってしまうが、深みがなくても別によいが、あった方が面白いことというのは世の中にいくつかあり、食事というものは人類が避けて通れないものでありなおかつ、積極的に楽しむことが奨励されている数少ない娯楽の一つでもあることを考えると、そこを深堀りするのは悪くないのでは、と思うということだ。
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