アフターマス/そのあいだ|weekly vol.0093
今週は、うでパスタが書く。
パンデミックのはじまりから一年が経って、それから一日、一日とカレンダーが上書きされていく。
ようやく時計が動き始める。
去年の今日どこで運命を知ったか、みなが口々に語っている。
静まりかえった大通りのことが、人影の絶えた公園に咲き誇っていた桜のことが、そうか桜というのはこんなにも無言で、ただ咲くのだと初めて知った春のことが、その静けさはまさに沈黙であったことが、ピリピリと肌に突き刺さるようだった狂気の昼下がりが、一日ずつが過去になっていく。
そうやって僕たちは、自分の生きた時間はいつまでも歴史にはならないことを知る。
教科書で見たモノクロームの景色が、祖父母にとってはそのときまだ「歴史」でなかったことにようやく思い至る。教壇のうえからはあれほど冗舌に語られた戦争が、なぜ祖父母の口からは語られることがなかったのかを、知る。
何度も、何度も上塗りされたカレンダーの下から浮かびあがる過去は僕たちが墓場へ行くまでずっとそこにいるのだということを知る。
災害で大切なひとを失ったひとびとの一年が、毎年その日にはじまってその日に終わるのだということが分かる。
僕たちはいま生き延びつつあって、ただし亡骸を数えるのはまだこれからだ。
危機の縁にあって「社会というものは、たしかに存在する」と言い直した首相がいた。この国の首相は過去に「ここには社会などというものは存在しない」と言い放ったことがある。
しかしおよそ政治家というものは「このひとたちには死んでもらって、このひとたちに期待をかけよう」ということを、ひとの文字どおり生き死にを差配する役目を負うのであって、そんな地位をみずから渇望して叶えた人間が年老いたからといってひとりの老人として死んでいくというようなことが許されるわけがない。このことはいつもしっかりと心に留めておきたい。
現代にいたって個の領域はますます拡大している。多かれ少なかれ不満を抱きながらも、僕たちはひとりびとりであって日常的に「自由である」という感覚を否定することができない。
しかし僕たちはこの非常時にあって、その空気のような自由が目の前でゆっくりと白く煮凝って人の手でより分けられ、ある部分からはすくい取られ、ある部分には触れるなと言われる、そういう経験をした。
ここに「社会」というものが存在して、その「質」が問われると言って、「パニックがいちばんいけない」と言われ、何のなかで「いちばん」いけないのかは知らされないまま「リスク・コミュニケーション」が語られ、勇気ある行動が称賛され、誰にも数え方の分からない死者数をテレビが繰り返すのを見た。
相手がなんであれ、社会は戦争の道具なのだと感じたひともいるだろう。
ところで先日、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」という映画を観てきました。
前回、要約すると「ちゃんと観てないし全然理解もできてないけどすごくよかった」とお話しした「鬼滅の刃」とはちがい、僕はこの「エヴァンゲリオン」という作品をちょっと分かっています。
いまから二十五年前にはじめてテレビで放映された原典である「新世紀エヴァンゲリオン」は庵野秀明監督自身の懊悩を色濃く映し出すきわめてパーソナルな作品として制作されたことが知られ、同時に無数の引用に彩られた異色のアニメーションとして好評を博した。それはいわゆる「オタク」のあいだだけにとどまらず、広く社会一般のひとびとをも巻き込む一大ブームとなって、当時「ガンダム以来」といわれる大規模な消費活動を呼び込むことになる。
しかし「エヴァンゲリオン」が奇妙であったのは、豊かなディテールに飾られた心躍る作品であるにもかかわらず、その物語が最終的には構造を欠いたまま終わったことだった。
「優れた物語」の定義にはさまざまあるようですが、さまざまあるのはそれが優劣にかかわらずひとの好みの問題だからです。構造に着目すればすべての物語はおなじである、この世にはひとつの物語しか存在しないというようなことを言うひともおります。
(中略)
そしてそれはともかくとして、まぁほとんどの文学的な試みはこの構造を逃れ、破壊しようとしながら結局はそこへ回帰していく曲線状であるわけでして、実はこの試み自体が他ならぬ物語構造をなぞっているというフラクタルが存在するのであります。
「Consumer Cyclical|weekly vol. 0091」(九段下パルチザン)
二十五年後のいまにして思えば、他ならぬ監督の人生はこのときまだ暗中模索の段階にあったわけだから、その懊悩もまたおざなりないわば「仮組み」の構造で閉じるしかなかったということに不思議はない。オリジナルのないところに影はできない。よって代表的な物語構造の一例に「人類最古の犯罪」ともいわれる父殺しの顛末があるが、強烈な母性への憧憬と絶望が描かれてきたにもかかわらず、テレビ版の「エヴァンゲリオン」は結局最後まで父殺しを描くことができないまま「了とされたい」とばかりに幕を下ろしてしまう。
アニメとしては異色の出来とはいえ、構造としてはこれほどまでにシンプルな作品がそれを閉じようとせず主人公の「帰還」という結末だけを投げ出したアンチクライマックスは、しかし当時のファンにとって大きな驚きであった。
ところがここで、このときまで寝転んで作品のディテールを頬張ってきたピザデブたちが突然立ち上がって怒りはじめる。いわば「STAY TUNE」を演らないままSuchmosのライブが終わってしまったような、そんな幕切れに客電があがっても彼らは帰ろうとせず、金を返せとばかりにアンコール!アンコール!と夜通し叫び続けたのだ。
商業的な成功、という非常に重要なポイントをあえて無視すれば、これは「ディテールを腹いっぱい食わせたら、あいつらいくら払うかな」とオタクの快楽中枢を刺激しつづけた制作者たちが受けるべき当然の報いだったということもできる。
そうした関係性を背景に公開された最初の二本の劇場版はきわめて皮肉な作品で、そんな客に対して「おまえたちの求めている答えは作品のなかにではなく、劇場の外に、おまえたちの人生そのもののなかにあるんだよ。これは結局よくある話のひとつなんだから」という割合ストレートなメッセージを投げかけて幕引きを図った(「本日の公演はすべて終了しております!みなさまどうぞお出口の方へお進みくださいませ!本日の公演はすべて終了いたしました!」)が、この皮肉はオタクにはまったくと言っていいほど通じなかった。
観る者が「物語」を引き取って自分のなかでケリを付けるということに慣れないオタクたちは「エヴァはまだ終わっていない!」と憤激した。一方、ブームに乗って観に来ただけの正常なひとたちは「なるほどね」と言ってここでエヴァンゲリオンからは離れていくことになる。
以降、エヴァンゲリオンの話をしている奴は社会的には異常者になった。これもまた当然の報いといえる。
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