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過去を生きるように、未来を生きる。|weekly vol.0115

今週は、うでパスタが書く。

あまり鍛錬というものを重ねてこなかったというか、いろいろあって鍛錬することよりも流れに身を任せることの方が「オッズがいい」と若い頃に誤解してしまい、この歳になってもまだ「人生は結局タイミングがすべてなのではないか」というようなことをずっと考えつづけています。
これに似たようなことを偉いひとが言っているとすると、それはおそらく「結局はタイミングだが、充分に準備をした人間にしかそのタイミングをつかまえることはできない」というような格言になるのだろうと思いますが、そりゃ偉くなっちまえばそういうことにしときたいよなぁ、とすぐゲス顔をしてしまうので、偉くなれません。

その一方、東京工業大学(いわゆる「東工大」)という理系ではちょっとした大学を出たあと麻雀がらみでいろいろなことになった先輩に、「あなたはそんなに数学に強いのに、なぜ “あの晩は俺に流れが来ていたんだ” とかそういうワケの分からないことを言うのですか?」と訊いてみたことがあります。六〇を過ぎた先輩は、うぅ〜、と唸って顔を覆ったあと、「それはね、ちょっと待ってほしいな」と静かに言ったまま結局その晩は何も答えずにホテルへ帰ってしまいました。この先輩とは次の日の昼にもラーメン屋で一緒になるのですが、特に何も聞かされないまま勘定はビールまで全部僕の伝票に乗っていました。

いずれにせよ何の準備もない人間にツキが回ってくるはずのないことは麻雀狂も競馬ファンも否定はしないでしょう。こういうひとたちの本棚(もしあれば)にはその手の本が無数に並んでいるものです。株もそうだと思うのですが、それについてはまたあとで触れます。
つまり成功をつかむためには誰もが準備をしなければならない、だがその準備が日の目を見るかどうかは運とタイミング次第だと、おそらくこういうことなのでしょう。だからこそ幼い頃からこどもにめちゃくちゃ準備をさせようとする親がいて、めちゃくちゃ準備をさせられたにもかかわらず肝心のタイミングはついにめぐってこなかったという年老いたこどもたちの恨みに今日もインターネットは満ち満ちているということなのかもしれません。
こんなことを思うとき、我々はこの多様であり過去のどの時代にもなかったほど可能性の開かれた世界において、こどもらの未来についてどのような言葉で話してやるのが正しいのだろうかと、つくづく考えてしまうわけであります。

※私はこの本を一五年ぐらい前から持っていますが読んでいません。感想をぜひお寄せください。

さて、私と妻がおなじカウンセラー(臨床心理士)のオフィスへ通っていることは過去にあちこちで何度もお話ししている通りですが、その先生はいまもご健在でその職業的な綱渡りを続行しておられるところです。
他方、私と妻とはこの先生とのあいだで持ったセッションについて互いに(少なくとも部分的には)情報や意見を交換しておりますが、最近はその妻がどうやら遠回しに「それはいわゆる中年の危機だから、心配しなくても大丈夫ですよ」と言われたらしいという話になりました。
つまりある種の精神的な危機が「中年の危機」だとするならば、それは多くのひとが経験する、たとえば思春期のようなもので、思春期が「危機」でないとするならば中年の危機もまた少なくともおなじ程度に危機ではないから、まぁあまり慌てずにそのときが過ぎるのを待てばと、そういうことをアドバイスされたのだろうと思います。

あるいは一度目の結婚がいよいよ最終局面にいたった頃、紹介された虎ノ門の弁護士事務所へ相談にまいりましたら、出会ってからオワリになるまでの一部始終をうんうんと聞いていたそこのセンセイはカウンセラーでもないのに僕が話さなかったこと、なんなら僕自身も気付いていなかった心理作用までを見事に言い当てたあと、「パターンなんだよね、そんなのは全部。キミはそうは思ってないかも知れないけど」と言いました。そしてこれは僕が「専門家と話をすることには意味がある」と考える理由のひとつなのですが、昔から「他人とおなじであれば生きている資格がない」とプレッシャーをかけられ肩肘を張って生きてきた僕がその指摘を「そうですか」とあっさり受けいれたのが我ながら驚きでした。

つまり専門家というのは積みあげられた知識の体系を修めることでいったんはその資格を得るわけなのですけれども、僕などにとって真に信頼のおけるその仕事の多くは資格というよりも職業人としてのその後の経験によって導かれるものなのであろうと思います。これは知識が玉石混交の土石流となってネットの海を埋め尽くす現代とこれからの世界において、職能というものの生き残る道を示唆しているようです。

僕の親しくしていただいている知人にとあるエンジニアさんがいらっしゃって、「エンジニア」といってもこの方は情報工学ではなく電気工学の方を修めているのでデバイスの設計とか製造計画とかを得意とするひとで、必然的にNゲージとかも好きだったりするのですが、システムエンジニアではありません。さる航空雑誌に連載をもっていた過去もある、まぁ要するに物事を突きつめるタイプの、かなり頭のいいオタクです。

自分ひとりの会社を経営する一人社長でいらっしゃることもあり、会うたびにいわゆるIT屋とは異なる視点で構想したビジネスアイデアをお聞かせいただいたりなどすると大変勉強になるのですが、その一方でなんとこのひとはなによりも他人の「顔の相」を重視しています。
酒などを飲んでいろいろと興味深いお話をうかがっているうち、誰かの話になりますと、必ずこのひとが「顔」の話を始めるわけです。「いや、やっぱり小池さんはあれは〇〇型の顔だからね、どうしてもああいう動きになりがちで…」とか、「うでさんは〇〇型だから、〇〇型とは相性がいいはずなんですよ…」とか、それまで次世代の半導体がどういう風に工場のラインに乗るようになるかを微に入り細に入り説明してくれていた流れで、表情や口調もそのままにいきなりそういう話がはじまるので、こちらは毎回面食らってしまいます。
どうしても微妙な表情になってしまうのを見ると、そのひとは「いや、うでさんはこういうのは嫌いかもしれませんけど…」と前置きして、いかにこの「顔の相」というのがそのひとの人格や向き不向きを判断するのに正確な手がかりとなるかを説明してくれるのですが、私はどうもこれが腑に落ちません。「どうですか、ひとつこれを企業の人事戦略に活用するということで売り込んでいくのは?」と事業へ誘われそうになったところでようやく、「いや、僕はまえに似たような話があったんですけどお断りしている経緯があるんです」と少し口を挟むことができます。

その日、私はあるホテルのビジネスタワーというだいたい何か具合のわるい話に呼ばれることが多いところを訪ねる予定になっておりました。紹介者は、ことは「占い」だ、というのですが、どうせネットで儲けたいという話になるのは分かっているのでいくらか力になってくれそうなひとにひとり声をかけて同行してもらいました。
部屋に通された我々のまえに現れた「先生」は、紹介をされると慇懃な物腰でA4用紙のプリントをテーブル越しに私たちのそれぞれへ差し出してみせました。そこには紹介者からもとめられて事前にお伝えをしてあった私たちそれぞれの氏名や生年月日をもとにした「性格」の分析がなされており、それはあきらかに先生が書いたものというよりはデータベースから引っ張り出されてきた定型のテキストでした。
しかし僕はそれ以前に台北へ旅行したとき、「怖いぐらい当たる」と教えられて訪ねた占い師が結果をPCから出力するのを見ておりましたので、そこまで大きな驚きはありません。またこれもよくあることですが、その日渡された僕の「性格」はそれなりに当を得ているように思われましたし、先生に促されて連れと結果を交換してみると、彼の性格もまた見事に言い当てられているように読めました。

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