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情動・忌み・ホルモンII(承前)|weekly vol.0121

今週は、うでパスタが書く。
なおこのnoteは前回私が書いた「情動・忌み・ホルモン」の後編としてお届けするものだ。
いずれにせよ責任はとらないが、前後編をあわせて読むことをお薦めする。

生殖に必要なふたつの性のうち、女性に月経をはじめとするいわゆる「生理」があり、妊娠と出産は女性にしかできないことだとしても、では「生理」とは、男性には訪れないものなのでしょうか。もし男性にも生理があるのだとすれば、それはどういったもので、男性はそれにどのように対応し、社会はそれをどのように受けいれているとあなたは思いますか?
あなたの会社が「男性の生理」について何か配慮していると感じたことはありますか?あるいは男性の生理とは、誰にも配慮されずに解決されるものなのでしょうか。あるいはこうした問題について、女性の生理とおなじように誰かと、あるいはどこかで話しあったことがありますか?もしなければ、それはなぜでしょうか。
質問箱にいただいたご相談をきっかけとして、私はここでこういうことを考えています。

私にとってはいまや遠い昔の記憶のお話で、現在の学校でどのような「性教育」が行われているのかは知るよしもありませんが、しかしある種のアネクドートとして、思春期にさしかかる頃になると「女の子だけに大切な話が行われる」ので、そのあいだ男子はドッジボールをしていたというようなエピソードが面白おかしく伝承されております。

実際に私が小学校の五年生だか六年生だかのときには男女を分離した特別授業がおこなわれ、それを担当したのはそれぞれ校長と教頭でした。「大切な授業だから」という説明が担任からはあったのですが、子ども心にもそれが授業の巧拙というよりは単なる責任問題であることが容易に想像できました。なぜならそれは保健体育の授業であったにもかかわらず、校長がもともと国語の教師でありその日のトピックに特に長けているはずのないことを私は知っていたからです。「恥ずかしい話ではないから」と最初に校長がことわりを入れましたが、そもそも教科担任がその話から逃げていることはこどもたちの目にも明らかだったと言ってよいと思います。

それはともかく問題はその内容で、保健体育の教科書を見れば女子生徒側でどんな「大切な授業」が行われたのか、そのさわりぐらいは察することはできるものの、そこから読み取れるメッセージ(私は一貫して国語が「5」の生徒だったので)は「男女ともにいろんな変化が起きるが、女性には生理があって大変なので理解が求められる」というものにとどまりました。
つまりはじめから「生理」にまつわる課題やトラブルは女性のものということでしたし、ゆえに月経が「生理」と呼ばれてもいました。射精のメカニズムといつか精通が起こること、夢精などの事故が発生することはいずれ中学生になるにつれて徐々にアナウンスされていったのだと思うのですが、初潮や月経についてのアナウンスに比べれば遅きに失した感もありますし、実際遅きに失している人間も私を含め大勢いました。そしてもっとも深刻な問題は、男性が自分の身体におこるこうした現象をどのように受け止めればいいのか、その後の人生において、自分の身体のこうした「生理」をどのように扱っていけばよいのかが教えられなかったことです。

社会的・歴史的に長く抑圧された女性が現代においてその権利を回復すべく諸々の生理について社会の理解を求める声をあげるのは必要なことであり、当然なことでもあると思います。しかしこと「生理」についていえば、男性の生理は女性のそれに比べて配慮をされることが現代ではあまりありません。むしろ歴史的には性的に放縦であったり暴力的であることすら許容されていた男性の生理は、十把一絡げに「過去の差別的な性慣習の遺物」とみなされ「男性に顧慮されるべき生理など存在しない。すべては身勝手な性観念のなせるわざである」と一刀両断されてしまうようなところがあります。
これが単に男性にとって不幸なことであるというにとどまらず、構成員のすべてに影響するある種の社会問題から解決の糸口を奪っていると考える私は、男性の性、男性の「生理」についてより公然と科学的な議論がおこなわれる必要があるという側面から前回登場した「ホルモンの研究者」の先生に賛同するものです。

たとえば「自慰」は月経が一般に「生理」と呼ばれるのに比べ精神的にニュートラルとはいえない表現をされていますし、厳格なカトリックが若者に自慰を罪だと教えていたりなどということが実質的な虐待であることもあまり真剣に捉えられておりません。もっといえば、オナニーはその語源を創世記で生殖にかかわらぬ射精をするオナンにさかのぼり、オナンに与えられた罰は死です。
しかしマスターベーションが男性の性処理において必要かつ有効な手段であって、特に性交渉の機会に乏しい青年期のはじめにおいてはマスターベーションが不可欠であることは少なくとも男性のあいだにおいて常識であり、また保健上・医療上も否定されていないにもかかわらず「何がどれだけ適切であって、なぜなのか」については議論も説明もなく、ひどい場合には「優しいものをみて射精しろ」という有名なネットミームがありますが、少なくとも私はいままで優しいものを見て射精したことがありません。そもそも「優しいもの」っていったい何ですか?青年が自分の性に適切に向き合おうと欲する際、そのような説明こそが乱暴だというべきではないでしょうか。
このように、正しい知識も情報も、評価も判断も与えられないままに少年たちは男性になっていっているという状況ではないかと思いますが、その理由が私には分かりません。

また、たとえば「貧困に苦しむ女性が生理用品に無償でアクセスできるようにするべきだ」という議論が起こったとき、いささか舌(または知能)足らずの男性が「では男性にもFANZAの料金を補助しろ」とか言って「女性の月経と男性の自慰を同等に考えることはできない」という反論を受けています。この男性が言わんとしていることにもそれ相応の訴えが秘められているのですが、しかし女性が月経を止められないのと同様に男性には射精が必要であるという事実が社会通念として充分なパワーを有していないため、だいたいがこの議論はここで終了となります。

そもそも生殖に必要なふたつの性のうち片方が女性でありもう一方が男性であるというときに、それぞれにそれぞれの生理があるのを当然だとするならば、それが「同等か」「なぜ同等か」「いかに同等か」を天秤にかける必要があるのでしょうか。
ここで私が前回から話している「生理」とは、女性ホルモンや男性ホルモンによって励起された生殖機能が進化によって用意された働きをおこのうことを言うのでありますから、同等であるや否やにかかわらず、あるいは思想や知能の高低にすらかかわらず、それは仕方がないばかりか必要なこととして対応されなければならないし、社会的に受容されなければならない。そのやり方にこそ大いに議論のコストをかけるべきだというのが私の考えです。生理に「痛い方が勝ち」とかそういう軸は存在しません。生理は「生理」であって、生きていくかぎり必要であり、私たちが増えていくために必要なのですからいずれの性においても重んじることが当然なのです。

私たちは誰も神によって平等に設計されたのではなく、たまたま生まれた通りでありながらいかに平等に生きることができるかを議論していかなければなりません。女性にとって月経が苦痛である一方、男性の射精が快感をともなうものであるから「男性の生理に配慮は無用」という議論も目にしますが、男性が快楽ばかりのために「自慰」にふけっていると考えるのははっきり言って妄想です。男性にとっての射精の必要性についてまじめに、心理的に、科学的に語る機会が失われつづけてきたことの、これは大きな陥穽であろうと思います。たとえば男性が長期間にわたって射精をできないとどうなるのでしょうか。配偶者を娶らず、「自慰」を禁じられているカトリックの聖職者はいったいどのように彼らの「生理」を処理しているのでしょうか。

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