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Mirrors | weekly vol.0105

地球の気温はこの先10年で平均5℃上昇するという。華氏で言うと41度だ。華氏で言われるとすごく暑くなるような気がしてくる。いや、摂氏5℃というのでも十分に暑いと感じる。世界の単位は未だに統一されていない。インチにフィートもあればマイルもあるし、センチもあればメートルもある。パウンドもあればキログラムもある。まあ単位というのは世界を切り取る便宜的なものだ。マッハがどのくらいの速さなのか分からない人類も多いが、それでも移動手段は進化を続けており、何も知らなくても人々は高速移動が可能になっている。そう、単位も言葉も便宜的なもので、その当時の人々が認識した世界を表すための表現のひとつなのだ。いや、科学的にはどの時代においても、地球上であれば1gは1gだと仮定すべきだろう、という誠実な人もいるかもしれないが、10億分の1秒と言われた速度を誇る計算機を持ってしても高速ババ抜きにしか転用できない人類なので、精度というものが善なる方向に少しでも寄与すればいいというところだろう。レシピを見れば未だに塩少々、と書いてあるわけだし、モレキュラーガストロノミーが普及しなかったのも、その日の湿度を肌で感じながら蕎麦粉への加水分量を決める職人が健在なように、まあまあのさじ加減というものがあるということで、その振れ幅は受け手が決めていたりもするのだ。いずれにしても、摂氏40℃を超えるような日々が続く中で人類は生きていけるのだろうか。地下に潜るのか?移動時にもエアコンの冷気に包まれていられるような手段が発明されるのか。それより先に滅亡するのではないだろうか。

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彼女は音読をやめるといつものように窓の外に目をやった。太陽は既にだいぶ大きくなり、観測記録を見るとかなり大きいと感じるくらいまでになっている。太陽が宇宙においてその存在感を増すのにつれて地球も暑くなってきた。気候変動というのは長期的な変化で、人類の千万と数百年の歴史から比べれば遥かに長い波長で動いている。文字通り宇宙的な波動は人類の微々たる日々の活動から影響を受けたのだろうか。地球という狭い環境においては、あるいは影響を及ぼすことが出来ていたのかもしれない。たまたま地球上の数百年の間に増えた生物が、また巨視的な変動によって減衰し滅亡していくというのは長い長い歴史から見れば取るに足らないことなのかもしれない。何をそんなに騒ぐのか、という姿勢はそれこそ神話的な世界観においてはよくあることで、世界の創造と破壊の繰り返しという波の中では一つの泡に過ぎないのであろう。

相対的に考えればそういうことなのだ、ということは分かっていても、自分が生きているその数十年間というのがまあ言ってしまえば人生の全てなので、その間に何を成し遂げるのか、何が起きるのかこそが重要なのだ、という見方もある。これは、自我という問題に行き着く道なのだろうが、我というものが宇宙に対峙するような重要な個という存在を意識させるわけで、幸か不幸か、こうした自我というものがあるからこそできることもあれば、躓くこともあり、古来より人類が向き合ってきた内省の副産物なわけだ。

こうした自我が生み出す諸問題というものは、ひいては認識の問題であるということができるだろう。というのも、認識していない世界については思考の対象にならないわけで、ようするに問題の大小を決めるのはその人間の認識力の問題であり、認識するとは、世界の存在を目の当たりにするということなわけだ。そして、その認識の精度を左右するのが、さきほど彼女が読んでいたような、単位だったり、言葉だったり、ようは切り取る道具の質なわけだ。では、その質を向上させるのは何かといえば、分解し描写するための語彙であり数式であるわけで、つまるところ世界は記述されるようにしか認識されえないということになる。そうしてみると、ここに収蔵されている古来より綴られた書籍やデータベースというものが世界がどのように見えていたのか、という断片の集まりであるということも自ずと理解されるであろう。

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キノコです。

夏の恒例鬱転と夏バテにより長い文章を書くことができなくなっておりましたが、なんとかかんとかWeeklyの発行にこぎつけることが出来ました。その間に世界は無事にオリンピックの開催を決定し、粛々とその準備をしているという状況です。東京での開催が決まった際に、そもそも興味もないし、混むであろうからオリンピックの時期には東京にいないようにしよう、などと話していたのが懐かしく思い出されるわけですが、コロナの影響で出ていくこともできなくなってしまい、灼熱の東京で今年も夏が終わるのをいまかいまかと待っている次第です。

毎年夏になると具合が悪くなるというのは分かっていても、暑いのは避けがたく、それゆえ、具合が悪くなるのも避けられないわけです。子どもの送迎もありますし、食料品の調達もあります。何もしなくてもよいのであれば乗り切れるのかもしれませんが、クーラーを付けていても掃除機を少しかけるだけでも汗が出てくるというような温湿度下においては、どうにもならないと言わざるを得ません。

リノベーションの際に騒音や断熱のためにインプラスという二重窓にしたのですが、蝉の声はそれでも聞こえてくるものですね。タワマンで暮らしていると季節感がなくなるみたいな話もあるので、そういう環境で育った子どもに比べて我が家では情操教育が上手くいっているのではないかと期待しております。やはり人間において大事なのは繊細な心の機微をどう捉えてすくい上げていくかということに尽きるわけですし、そうしたエモーショナルなスキルというものは低層階でしか育まれないのだということなのでしょう。

夏といえば果物の季節ですが、今年は天候の影響でさくらんぼも不作でしたが、メロンも不作とのことで、我が家では危機感を募らせております。桃やぶどうはどうなのでしょうか。花の時期に気温が上がらなかった、というのが不作の原因のようですが、気温というのはままならないものですね。外食に行かないと旬を強調したメニューというのに出くわす機会が減るのですが、なんとか日々の食事でもオクラや茄子などを取り入れつつ季節感を取り入れていくのが丁寧な暮らしというものでしょう。丁寧に暮らさないと、感情が死んでしまいます。

オリンピックをめぐるゴタゴタが日を追うごとに加速しているようですが、最近話題のキャンセルカルチャーやコールアウトカルチャーというものも、どこまで遡って過去の悪事を暴いて糾弾するのか、というのは人によってだいぶ温度感が違うんだろうな、という気がしております。イジメをプライベートとするかというのも、犯罪と認定するのか、というのもまあ時代や環境によって法的制裁、社会的制裁などの使い分けにもつながっていきますし、過去の出来事をいつまで引き合いに出すのか、というのは多少なりとも公的な側面を持つ表現者や、要職に就こうとするひとにとってはけっこうシビアな問題なのではないかと思います。憎まれっ子世にはばかる、と誤解している人もまだ多いでしょうし、この潮流はしばらく続きそうな気がいたします。

というわけで、本日の話題は因果の話です。

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