暴力をもたざる強者の生存は。
今週は、うでパスタが書く。
このBibliotheque de KINOKO Weekly Magazineも始まってはや五ヶ月。先週もなにかあったようだが私はこれについて言い訳をしない。特に悪いとも思っていない。ただ今度の年末年始にはあらかじめ何らかの告知はする。
アメリカ人ならこういうときに必ず、迅速に言い訳をする。その言い訳はきわめて迅速だ。妻が通っていたボストンの大学では最終的に、授業中ドアを開けて出ていったかと思うとスタバの紙コップを持って帰ってきた女学生がいたそうだ。さすがにそれを見とがめた教授が「授業中にスターバックスへコーヒーを買いにいってはいけない」と注意すると、女学生は “But”(でも)と言ったそうである。「私はのどが渇いているんです」。
あなたが日本人ならば齢がいくつだろうがこんなことは絶対にやってはいけないと教えられてきたはずだ。だがアメリカではむしろ言い訳をしない奴はバカだと思われるようだ。“But”をあなたはいつもいちばん取り出しやすいポケットに入れて持ち歩かなければならない。
税関で、コンビニで、駅で、あらゆるところでそれは起こる。彼らは客に対して何の留保もない「ノー」を突きつけるからだ。「ダメだ、できない。そうはなってないんだ」と顎を突き出し不機嫌そうに彼らは言う。にべもない返事だ。
だが慣れてくるとそのあとに、奇妙な間があることが分かってくるだろう。「ノー」と言った相手がそのまま上目遣いにこちらを見てじっと突っ立っているのだ。なんだろう、この時間は。つまり、彼らはこちらが言い訳を返してくるのを待っているのだ。
そしてこの言い訳はクオリティにかかわらず信じられないぐらいの確率で通る。返事が「ノー」だったとは信じられないぐらいだ。私はジャパン・フェスティバルに知人が出した牛丼屋の屋台を手伝っているときに米を切らせて客を四十分並ばせるという経験をしたが、そのとき包丁一本でアメリカへ渡って二十年になるシェフがこう言った。
「いまから列のうしろまで歩いていってこう言うんだ。『いま白米が切れてしまったので店から炊きたてを運んでくるところだ。だがパレードの交通規制で遅れている。車はもうそこまで来ている。我慢してもらって感謝している』」
ほとんど言い訳にもなっていない、まさに物売るってレベルじゃねぇ対応だ。だが私がこれをやると長大な列をなしたアメリカ人たちはみな一様にうなずいて「やむなし」という表情を見せた。心なしかほっとした空気すらあった。結局長いひとでは牛丼一杯に一時間も待たせたが、なんのサービスもなしにその列を脱落する客はほとんどいなかった。
「理由があればアメリカ人は結構なことでも我慢してくれるよ」とシェフはこともなげに言っていた。「なんでもいいんだ。説明をしなきゃ」
いまからアメリカへ行くというひとに助言を求められたら僕はこの話をすることにしている。
日本へ帰国してもうしばらくになる。この間あまり精力的とはいえないペースでひとから薦められたアニメを消化してきて、最近は「SHIROBAKO」を観た。地方の高校から短大を出て武蔵野アニメーションという制作会社に入った女の子が業界事情に振り回されながら、これが本当に自分のやりたいことなのか、自分に向いていることなのかと悩み、やがて自分の手で答えを見付ける二クールのTVアニメだ。
時期が時期なので、フィクションとはいえアニメーション業界で働くひとびとの苦労や喜び、それぞれの複雑な思いに触れると京都アニメーションを襲った悲劇へ思いは自ずといたり胸が痛んだ。東北関東大震災で二万人という犠牲が出たことについてビートたけしは「二万人ではなく、ひとりひとりの人生があり、それが二万という数だけ失われたというように考えられなければ本当の意味は分からない」というようなことを言ったと伝えられるが、「SHIROBAKO」は私に三十五人という犠牲の本当の重みを教えてくれたという気がする。
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