引き延ばされる袋小路/永遠の訪れる前の|weekly
今週は、うでパスタが書く。
はじめにお伝えしておくと来週と再来週、このウィークリー・マガジンは夏休みとなる。つまり充分に運がよければ次回は8月29日(土)ごろ、キノコさんが更新するということになるだろう。
しかしそれまでいったいどうしろというんだ、という向きもあると思うので、8月20日(木)には20時よりYouTube配信「BiblioTALK de KINOKO Vol.3」をお届けする予定だ。このURLはまた追って公開する。
配信のテーマは「死」、それもいまやコントロールの余地が本格的に大きくなってきて、ときには必要にすら思えることもある現代とこれからの死について、その取り扱い方を考える。「考える」というのはもちろんキノコさんと私が考えるのであって、「浅い」とかそういうコメントは不要だ。あなたはあなたで考えればいい。相当「深い」んでしょうね?
少なくとも私の前後にあたる時代に早稲田大学というところを出たひとには同じようなエピソードがいくつもあるのだが、私もやはり授業にはいちども出席せず、いきなり受けた試験で苦しまぎれに何か書いたらなぜだかそれで単位が取れたという経験を何度もしている。
ある通年の授業では前期の試験すら受けず、思うところあって後期の試験だけは受けにいったのだが当然何を答えればいいか分からないので想像で書いたら成績が「優」だったということがあって、さすがにこれはないのではないかと私の方が思った。
私が現在も舌鋒鋭く展開する「日本の大学批判」はこのあたりに根っこがあるので、要するに悪いのは早稲田大学と私だという反論は、まぁそれなりに的を射たものと言えると思う。
その一方、いちおうは大学であるから落とす単位というのはあるもので、私の場合にはどうしてもとる必要のあった「宗教学B」という後期の授業を二年連続で落としているが、これは試験すらなく年末に発表される課題図書を読んで、したためたレポートを年明けに先生のご自宅まで郵送すればOKという楽勝単位であったにもかかわらず、掲示板に貼り出された安西先生の自宅住所を確認しにいくのがどうしてもダルくて、授業には稀に出席していたにもかかわらず、結局単位はとれなかった。この一件はその後、大学院への進学をやむなしとする原因のひとつとなり、現在までつづく壮大なドミノ倒しのはじまりだったとすることもできるが、ここで深く立ち入ることはよす。
そんななかでひとつ、これは助けられたなと記憶しているのはこれもたしか哲学方面の一般教養科目だったと思うが(それも忘れた)、試験前に調査のため初めて授業に出たところ試験問題は選択制だとされており、「授業に出席していなかった者のための救済措置」として、課題図書を読んできてレポートを当日答案用紙で即興せよというのがそれに含まれていた。繰り返すが、要するにこういうモラルハザダスなクソゲーが当時の早稲田大学だったのだ。
そして時は一九九七年、この授業(忘れたが)で提示された課題図書こそは、二年前に出版された「わが息子・脳死の11日 犠牲(サクリファイス)」(柳田邦男/文藝春秋)であり、なんと既読であった。
作者の柳田邦男はノンフィクション作家へと転じた元NHK記者だが、いわゆる「生きにくさ」に長く苦しんだ次男を最終的に自殺で失っている。縊死により脳死状態となった次男の身体から臓器移植をおこなうために生命維持装置を止めるかどうか、ひとりの父親として味わう絶望のなかで過ごした十一日間をみずからの手で振り返ったのがこの本だ。
キリスト教会での活動を通して仲間を見付けた次男が自己犠牲(サクリファイス)に生きる意味を見出そうとして、そして結局はその死を通してどこかの誰かを生かす犠牲になりたいと願うようになったことが、タルコフスキー監督の映画「サクリファイス」とそこで用いられる「マタイ受難曲」との運命的な交錯とともに絞り出すように語られる様は、この作品の執筆が柳田自身の人生をふたたびスタートさせるために欠かせない儀式であったことを察するにあまりある。
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