テクストの黄昏|2022-10-17
今回は、うでパスタが書く。
学習という行為の態様が変化しております。
二十世紀の終わりまでは、「勉強をする」といえばまず本を読むことであり、とにかく本を読む子は「まじめ」「勉強ができる」「将来が楽しみ」とされていました。もちろんこれはいまと比べれば本を読む以外に教室で役立つ知識を吸収するチャネルに乏しかったからで、もっといえば教室での学習体験自体が「知識の習得」に大きく偏っていたという教育全体のありかたにと深く関わっています。
現在ではすでに日本の小学校でも教材は徐々に教科書とノートからタブレットやChromebookへ移行しはじめているようで、このシフトにはコロナ禍も一役を担ったようですが、いずれにせよ学年があがるほどにこうした傾向は強まるように聞いております。
そしてこれはまた、単にテキストがデジタル化するというにとどまらず、従来はビデオ(視聴覚)教材などとして添え物に過ぎなかった動画による知識の習得やインタラクティブな学習体験への道を大きく拓くこととなっており、教師や教育界全体にもいよいよ学習という営みの再定義を実際的に迫っているのが実情ではないかと思います。
ただしこれは何もこどもの学校教育に限った話ではなく、私たち大人の職業訓練や「学び直し」においてはもっとそうであり、職場のトレーニングが動画視聴によって行われることはもはや当たり前のようですし、プログラム言語の習得や対戦車砲の扱い方、調理法、配管の修理などほとんどありとあらゆる知識や技術がもはや書店や教室ではなくYouTubeなどの動画メディアを通じて教授されています。
教授法においては「百聞は一見にしかず」と言いますか、従来も知識は本で読んでも技術は先生がいないとなかなか身につかなかったのと同様、やはり動画に優位性があるのは否定しようがありません。しかし動画で何かを習得すれば、それをあとからわざわざ本を読んで補強しようというのも二度手間ですし、そもそも実用書の類いは本を読むという行為自体がAudibleのように「聴く」行為へと急速にシフトしているジャンルであったりもしますので、読書は視聴により補完されているというよりは代替されつつあるように見えます。
では果たして本を読むことが学習行為の代表選手であり、頭のいいひとの際立った特徴であった時代は単に「動画以前」の前史時代に過ぎず、技術革新によって克服された不自由な時代であったということになるのでしょうか。
私の子などもiPadを持たせれば算数だろうが何だろうがそれなりに楽しんでいつまでも時間を潰してくれますし、図鑑もほとんど付属するDVD目的で欲しがっていますが、それなりによく見ていろんなことを吸収しているので「これはこれで良し」と思いはするものの、やはり何とはなしに不安になって「本を読んでほしい」と願ってしまいます。私たち親のこうした思いは単にノスタルジーに過ぎないのでしょうか。それともなんらかの合理性を持ちあわせているのでしょうか。
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