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ヴァリアス・ヴァイラセズ・ゴー・ヴァイラル。|weekly

今週は、うでパスタが書く。
特に謝罪の意図はないが、不要不急の温泉旅行で伊豆へ行っており更新が大幅に遅れた。当たり前だが魚がうまかった。肉もうまかったが、まぁ日本はどこへ行っても肉はうまい。

ウイルスがいかにたやすく国境を越えるか、というような話については過去にブログに書いたので、ここでは繰り返さない。たしか、それは戦争と同じで、祈ることはほとんど役に立たないというような話だったと思う。いま文章に金を払ってくれているひとにこういうことを言ってはなんだが、その頃私は結構いいものを書いていた。

あるいはこういうのはどうだろう。
震災を逃れ妻を連れて故郷へ帰った男に、引退した科学者である老父がこのように語り、逃げ出してきた息子を暗に叱る。

「有効な生存戦略と云ったが、私に云わせれば自然の力を前に有効な生存戦略など存在しない…ただ、いざというとき、ここを死に場所と決めて腹をくくれば、もしかしたらわずかに生きる道が見付かるかもしれない。その一方、もっとも避けなければならないのは東京のような大都市で起こるパニックだ。そうなれば弱い人たちから犠牲になる。それだけは避けなければならない」
(「永遠の終わり。」/「新宿メロドラマ」所収)

※書籍版「新宿メロドラマ」は第三版に深刻な欠陥を出して返金を完了したところである。上記リンクは来月ごろに用意できる見通しの「修正版」で、現在予約注文を受け付けている。もはや「買ってくれ」とは言えない。言う資格がない。

さて、パニックを防ぐというのはいかにも統治者の考えそうなことだ。
統治、というのは換言すればこういうことになる。

統治者と被統治者がいたときに、これは変な言い方だが、被統治者に強いる犠牲を統治者は甘受しなければならない。つまり「尊い犠牲」やむなしとする決断と覚悟が統治者には必要だということだ。

経営者というのはえてして「従業員のために会社を守る」というようなことを言うのだが、ある局面において、今度は「会社を守るために一部の従業員を犠牲にしなければならない」というところへ来る。端的にはリストラクチャリングが必要になった場合がそれだ。
そうして「従業員のために会社を守るために従業員を犠牲にする」ことになり、ここに統治が発生すると、私自身が経営者の端くれをやっていたときには感じた。それがもう経営者なぞやってはいられないと投げ出した理由のひとつだ。
小規模でもこういう経験をしているひとというのはやはり、国家の内において自分たちもまた統治されているということ、統治者のディシジョン・メイキングは結局のところ彼ら自身のためにおこなわれるのであって、犠牲に選ばれる被統治者にはなにひとつ利益がなければ、理が通ることもないと、よく分かっている。「自己責任」という言葉の含意は、こうした経験をしているひとにしか共有不可能だと思う。

統治よりも卑近な言葉に「政治」というのがあるが、政治の役割は利害の調整、つまり究極的には「誰が犠牲を引き受けるか」(誰に犠牲を押し付けるか)を決定することに他ならない。ひとり政治家がいれば、「あいつのおかげで助かった」という一派と、「あいつだけは許さない」という一派がいるのは当然のことだ。だから生死を賭けて一票を投じる必要があるし、実際に田舎へ行くと誰に投票したかに生死がかかることもあると聞く。ある落語会で噺家が、「私の地元、徳之島で最大の娯楽は選挙。投票率は全国トップの一〇八パーセント」と言っていた。

政治学という学問において「権力(power)」は、「AがBに対して、Bの意志に関わらずなにかをさせることができるとき、AはBに対して権力をもっている」と説明される。
統治というのは、こうした政治をひとつのテクニークとして集団を長らえさせ、そして言外にはさらに統治者自身の命脈を繋ぐことをも目的とした営み、行為のことだ。ただしこのへんは、私が勝手に言っていることである。

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