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集め、積み上げ、繋げる。| weekly Vol. 080

「遠路はるばる来てくれてありがとう。」
ぼくは久しぶりに会う友人を労いつつも、遠路という言葉にやや力を込めつつ言うことで、自分の境遇を説明するための弾みをつけたかったのだと思う。今年採れた蕎麦の実を炒って作った自家製の蕎麦茶はとても香ばしく、初冬の外気に晒された身体を優しく温める。友人はお茶を一口飲むと、窓の外の景色を眺めつつ話を促した。
「で、どうなの。自給自足の生活は。」
友人に会うのは実に15年ぶりなのだけれども、つい先日も会ったかのような気安さで尋ねてくる様子に安堵と、だからこそ友人関係が継続するのだなという納得をおぼえた。

世界は未曾有の感染症危機を経て大きく変化した。都市への人口の集中と空港網をハブとする世界的な感染のネットワーク、というものが広めた感染症は人々の住居へのあり方を変えるかと期待されたが、実際に起った変化は、分散ではなくさらなる集中と管理というものであった。人々は都市への集中を促され、徹底的に管理された衛生環境と、行動様式に従うことを余儀なくされた。安全安心と個々人の自由というものを秤にかけるべきものだと捉えるのは既に術中にハマっているのだ、という見解もあったが、感染症というものの性質上、社会全体のシステムの維持という大項目の前に、個々人の自由というものを抑制せざるを得ないのでは、という世論が結局の所通ってしまった。

そんなわけで、地方で暮らすというのは非常に高コストな選択になった。航空運輸業界、自動車業界、住宅業界、エネルギー業界、電気業界などいくつもの業種が事業内容の転換をせざるを得なくなったおかげで、事業会社は統廃合された。その恩恵の一つが、垂直統合、水平統合により生活全体のインフラを総合的に管理できるシステムの開発だった。LLOOS(Life Line Optimization Operatioon System)と呼ばれるソフトウェアパッケージは、生活に必要とされるものを一括で管理できる画期的なものだ。ただ、難点があるとするととても高額だということだろう。元々都市に集中した人口に最適化したマネジメントシステムなので、多数の利用者で負担を分散する想定で設計されている。つまり地方の山林でポツンと暮らすような生活に適用するようにはできていない。ただ、都市部では暮らしたくないという富裕層は必ずいて、その富裕層向けの小規模なパッケージを開発する、というのが私の役目であり、ようは自分自身で開発をしつつ実装をしている。

地熱や風力、太陽光、海洋温度差発電などいわゆる代替エネルギーというものも導入して実験しているものの、実際には長い長いパイプラインを引いてほとんどのエネルギーは既存の発電システムから得ている。地方でのんびりと自給自足の生活という理想像を描いて見せるために裏では膨大な資源を費やしているというのが現状で、正直に言ってしまえば富裕層の思い描くライフスタイルを実現するための無茶なプロジェクトになりつつある。

とはいえ、農業ロボットの導入や、品種改良された農作物の育成管理は実用に値するし、発見も多くあってこの実験生活が続けばいずれ人がまた地方で暮らすことも可能になるかもしれない、とは思う。朽ちていくインフラをなんとかメンテナンスして使い続けるのではなく、遺棄し新たに開拓する、という選択は非難を集めたが財源も人材もなく、他に選択がないという政府の必死の広報はここでも世論を上手く誘導することに成功し、この国はようやく新しいシステムを作る方向へと向かうことができたわけだ。」

彼女は音読を中断し窓の外に目を向けた。自然との共生というコンセプトで設計されたこの街は大きな樹木に囲まれており、眼下には広大な森林地帯が広がっている。樹木の寿命は人間よりだいぶ長い。都市もまた、その器の中にいる人間は入れ替わっていくものの、ずっとずっと長く存続する。もちろん、湾岸の廃墟のようにコンセプトの安易さが相まって遺棄されてしまったものもある。都市の価値というものは住む人の質によって決まるわけで、ようはそういうことだったのだろう。

世界は国単位ではなく都市単位で独立するようになった。200程度の国から、500程度の都市に分裂というか細分化し、自治、つまり政治的な活動も都市単位になった。そして都市部以外の地方は誰も統治しないエリアになってしまった。統治というのはその対価として税や労働力や資源を得ることができるからするわけで、何もないところを好き好んで統治したがる国家というものはなかった。領土の広さというものが意味を持っていた時代はとうに過ぎ去った。ようは余裕がなくなったということでもあり、過剰から最適化へと進化したとも言える。

予測技術の精度の向上は不測の事態への備えを圧縮することに成功した。また、人類は多様なように見えたがその中に潜むパターンが解明されたことにより、多様性に対して対応するという役割も自動化されたため、本来的に適していない労働から解放された。人類の存在意義は特に無い、ということは大昔から言われていたことだが、無理して生きる必要がないということや、幸福の追求をするために生きるべきだ、というような話もされなくなり、やりたいことがある人だけが生き残ったというのが大きかった。脳にあるバグのようなパッションや過剰なポジティブさというものだけが純化されたとも言えるが、それはそれで今の所安定しているようだ。

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キノコです。

先日の配信はまたうでさんにお任せしてしまったわけですが、日本人の3人あたり5人が患っている精神的な苦痛であるところの鬱を発症しており、いずれにしても、うーとか、あーとかしか言えないような状態ではいてもアレだったと思いますし、次回にご期待ください、というところです。こうしてnoteを書ける程度には復調しつつあるということをまずはお喜びいただければと思う次第です。

過日の配信でも触れていたように、死というものは遠くにあるものではなく割と身近にあるもので、機会と勢いがあればすぐにでもそれを実行可能な状態である、というものです。そうしないためには何をすべきかというと、とにかく寝るか、何もしないことを受けれ入れてくれる環境に置かれるか、というところで、気持ちを強くするみたいな話はおおよそ関係ありません。気合みたいなものではないのです。

娘に請われて鬼滅の刃を読んだのですが、久々にこうした戦いや成長というものを物語として消費すると、なかなか厳しいものがありつつも、キャラクターの葛藤などは面白く、こういう作品が評価されるのはいい世の中だなと思いました。元気な時に読むとまた感想が違うのかもしれませんが、鬼殺隊も鬼も目的が割としっかりしてていいよね、みたいな感想も抱いていしまいました。

さて、Daily100日チャレンジに頓挫したのでまた挑戦するのですが、下書きなどをしておけば10日分くらい自動で投下できるということは分かっているのものの、日々の体調や関心を反映したいという目論見があったがために、まさに日々の体調によって頓挫したというものでして、まあここまで含めての様式美みたいなものなのだろうなと思うわけです。こちらは11月から復活の予定であります。

さて、本日はそもそも暮らしとは、という話です。

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