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第三の場所になるか

「ブランコが二つ。(ブランコの数え方が一つ、二つ、で合っているのかは分からないけれど。)それに鉄棒が高中低と三種類。あとは小さなお砂場がある。平日の昼間ということもあり、子どもの姿もなく、近道のために通り抜ける人もいないような小さな公園は鳩の姿もまばらで、大都会の中にあるにも関わらず木漏れ日溢れるその様は生と死をつなぐ束の間の休息所の趣がある。生と死をつなぐ、などというと大げさなように聞こえるかもしれないが、人生は常に生と死の間にある点であり、一方向に流れる大きなうねりに翻弄されている小舟のようなものだ。その流れを乗りこなそう、あるいは抗おうとするのが、ある種の人々の悲願であったことは確かだが、幸いにして自分は老化や死というものを恐れることはないものの、とはいえ漠然と流れているであろう時間というものに思いを馳せる時には、必然的に自らの人生の始まりと終わりを意識してしまうのは仕方ないことであろう。だからこうして公園のベンチに少しの間腰掛けて、何の目的もないような時間を過ごす瞬間にでさえ、人生の不可逆さというものが凝縮されていると感じ、束の間の生と死の間の休息所、などという印象を持ってしまうわけだ。私の仕事はショッピングモールのテナントの管理だ。管理と言っても、何かを監督したり、マネージしているわけではない。朝モールに行って、ぐるっと中を一周りする。11時の開店に合わせて、お客様の入り具合を見る。その際に各テナントに私が見回っているということをさりげなくアピールすることが仕事なのである。人間は見られていないとすぐにサボる、という人もいるが私はそうは思わない。しかし、誰かが監視ではなく評価をしてくれるかもしれない、という期待は人をその気にさせることがある。つまり、モチベーションを上げるきっかけになるのが私の仕事だ。それゆえ私は誰よりも評価の視線には敏感で、こういった使い古された言い方で言えば都会のオアシスと言えるような誰にも見られないスポットをいくつも知っている。そして、そこで誰でもない時間、まさに生から死へと向かうその時間の流れを少しだけ緩めてくれるところを求めているのである。」
彼女は音読をやめるといつものようにこちらに向き直り、少し姿勢を整えてから話をしたそうにこちらを見ている。人間が労働や死というものと無縁になってしまってからもうだいぶ長い時間が経つ。おそらく、姿形が過去この地球上で繁栄していた人類に多少似ている、という以外には過去の人間たちと我々の間に接点はほぼないように思われる。8万年という時間は種の変化をもたらすには十分な時間だと言えるだろう。僕と彼女はたまたま見つけた図書室というアーカイブの中から、大昔の人間が残した文献を探してきて読むのが楽しみで、こうして暇を見つけては音読をして感想を言い合ったりしている。
海と呼ばれていたエリアの近くには、大きな建造物がまだいくつも残っているが、あれはタワーマンションと呼ばれていたもので、中に人間がぎっしりと密集して暮らしていたという。何物も永続はしない、という前提は生き物の中に漠然と共有されている感覚だとは思うが、建造物については生物よりは遥かに耐用年数が長く、今もこうしてその姿を残していたりする。とはいえ、それは在りし日の用途には使えないので、少しずつ砂へと還元させている。まさにさっき彼女が音読してくれた話の中に出てくる公園のお砂場のようなものだ。灰色で、どこまでも続く巨大なお砂場。

キノコです。

話をしていると冗談か本気か分かりにくい、とよく言われるのですが、それが冗談か本気かで何かが変わるのでしょうか、というのが疑問なわけで、結局、なんだ~という反応しかしないのであればどうでもいいのではないかと思ってしまいます。真実への人間の態度というのがこういった日常の会話にも表れているわけで、それが真実かどうか、を尋ねることはあっても、その真偽によって態度を改めるということがなければ、なんのための問いなのか、と。ここからも分かるように、人間の雑談というのは、二分探索よりも稚拙、いや、巧妙?なアルゴリズムによって構成されているわけです。キノコにはこういった複雑な応答関係に適切に対応することができないため、いわゆる雑談というもので若干のストレスを蓄積していくことになります。雑談を筆頭とする言語による他愛のないコミュニケーションというのは猿の毛づくろいのような意味合いがある、という説があります。ある小集団の中において、互いにケアをするという場合にボノボなどのようなフィジカルな接触を伴わず働きかけるという点で、まだ言語によるやり取りで良かったなと思う一方で、なぜそのような小集団内でのケアを相互にせねばならないように進化したのか、ということを疑問に思ってしまいます。家族やパートナーという間においてそれが求められるというのは分かるのですが、職場においても、という場合、恐ろしい仮定をすると、もしかしたら相手は自分のことを家族やその延長のように受け入れているのではという仮説にたどり着きます。一体全体、どうしたらそんな思考になるのか、というのは今後の解明すべき課題なわけですが、まずはこういった仮説があったとして、取りうるべき行動の選択肢を吟味せねばなりません。などといったことを考えつつ日々なんとかやり過ごしておりますが、そろそろ限界です。

ちらほらとアップされる画像からもご推察いただけるように、図書室の本が無事に収納され、ややムーディーに過ぎると感じられる照明も設置されたので、そろそろ本格的に開室および運営をしていく段階なのではないかという熟議がなされております。が、運用者各位がそれぞれワーカホリックな生活や資格試験のための勉強などに追われており、いわゆる進捗というものが出ていない状況なわけです。進捗報告、というものを一度でもしたことがある人間であれば、進捗が0から1になることと、1から100になることの間には大きな隔たりがあり、また、90が100になる時には0から1になる時と同じくらいの労力がいるということもお分かりいただけるかと思います。じゃあいまの進捗は0−100のどこなのか、という話はここではしませんが。

さて、今回はサードプレイスの話です。

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