Little Wonderland | weekly vol.0101
「彼女と言い合いになったのは些細な一言がきっかけだった。
彼女いわく、あなたはロボットみたいで怖い、と。
その言葉は、おそらく、毎日同じような行動を繰り返しているだけで、自由度が少ないように見えるということだったのだろう。けれども、ロボットみたい、という表現はあまりにロボットのことを知らないし、逆に人間にそんなに自由はない、という僕の常日頃感じている鬱積とも重なり合って、言い合いへと発展したのだろう。ロボットはプログラムされたことしかできない、というのはある種のロボットについての狭い見解であり、自己学習をするロボットは教えていないことも学ぶことができる。一方で、人間は教えたこともできないことが多いし、学習の機会を設けても気が付かないことが多い、そもそも思考の回数がロボットに比べて圧倒的に少ないようにも見える。一部の人間はもちろん、創造的で独創的だというのはその通りで、それはビジネスの世界でも、科学の世界でも、アートの世界でも同じだろう。実際に何かを生み出す人というのは、全体のうちのほんの数パーセントの人たちで、大多数の人はその模倣や、模倣の失敗、あるいは場当たり的に何かを判断して行動しているだけだったりする。僕の人間に対するこの絶望にも似た悲観的な考え方は、彼女には受け入れ難いものだったようで、そんな風に悲観的だから精神の病気になるのだ、というようなことまで言われたが、人間が生まれて楽観的に今の時代を生きるなどということが可能なのだろうか、という疑問にはついぞ答えてはくれなかった。いっそロボットのように上手に設定されたことを繰り返せればいいものを、それさえもできない、という事実が僕を打ちのめすのであった。」
彼女は音読をやめると、窓の外を見ながら、自身の腕をさすりつつ、ロボットと人間の差はどこにあるのか、というような話を始めた。人間の特異さ、というものは現在急速に失われつつあり、人間だから自由だとか、人間だから創造的だ、という話をする人はほとんどいなくなってしまった。無数のパターンを認識し、ランダムにそれを組み合わせることはコンピューターの方が得意だし、人間の傾向性というものが解明されればされるほどに、人間特有の傾向は、虫が光を求めて集まるそれと、複雑さの方向性が違うだけで、十分に科学的に解明可能なパターンを有しているという話になっている。それは時間をかけてゆっくりと淘汰され、傾向として身につけてきたものであって、ある日突然生み出された創造的な何かではないということであり、一部の人間はそうした世界観に大いに抵抗した。
生物あるいは人工的な創造物であるロボットをも含めた存在の中で、人間だけが特別である理由を何に求めるのか、というのはかなりセンシティブな話題であり、それは結局、人間の間でだけ流通するような信仰のパッケージだったりもするのだけれど、人は自分の存在を特別なものであると感じたい、というのには異論はないし、そうした執着こそが人間特有のものだったりもするのだとすれば、それは逆に特異であることの裏付けになるのかもしれない。とはいえ、それが特異であることを裏付けたとしても、特権的な生物であるということの根拠にはならないわけで、結局の所多様化以前の人々が探し求めていたような人間の特別さ、というのを普遍的に根拠付けることにはならなかったために、いまではあまり人気のない思想になってしまった。
特別さの根拠を何に見出すのか、というのはなかなか難しい問題なのかもしれない。
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キノコです。
適切なモチベーションの刺激や維持、というのは人生を豊かに生きていく上で身につけなければならないスキルの一つのようですが、やる気スイッチというものがどこにあるのかを探すのには、多くの試行錯誤が必要で、その試行錯誤をするためにもエネルギーと時間が必要だ、ということが人生の大問題の一つなのではないでしょうか。
やるべきことを淡々と成す、ということができれば世界はもっと平和で繁栄しているはずなのですが、そうなっていないということはどこかにボトルネックがあると考えるのが妥当なのではないかと思います。一つは先に挙げた適切なモチベーションの刺激と維持。これは現在の緊急事態宣言への市民の自発的な協力というものを前提としているわけですが、自衛の意識が高い人は言われなくても自衛するでしょうし、意識の低い人は言われても適当にしか対応しないわけです。規制というものは負のインセンティブをもたらすものですが、網の目が大きければ抜け道も増えるし、細かくすれば本来規制の対象にすべきでなかったものまで取り除いてしまいかねない、というところで設定が難しいのだろうなとは思います。どこにチューニングするのか、というのが為政者の腕の見せ所かつ、まあそこしか為政者の役割はないでしょう、と思うのですが、この1年と少し見ている限りでは問題が大きくなればなるほどにその調整というのは難しいのだろうなということが察せられます。だからといってやらないという選択はないので、調整は延々と続けていかなければならないとも思いますが。一番怖いのは考えることを放棄することで、なるようになるみたいになってしまうことなので、緊張感をもって対応を続けていただきたいと思う次第です。
さて、相場の話は配信でもしておりますが、ボラティリティーが低下しつつあり、次のビッグイベントを待っているという感じになってきております。待つのも相場という格言がありますが、相場参加者は暇なこともあるので、何かにつけ格言があり、どのような状況でもそれを形容する格言を引用することが可能なのではないかと思ってしまいます。物は言いよう、ということでもあります。コロナ後の世界秩序、というものがどのようなものになるのかまだよく見えてこないのですが、半導体産業をめぐる産業政策のあれこれをみると、テクノロジーはまだ普及期であり、これからさらなる拡大をしていくのだろうという気がしてまいります。まあ、IoTを本当にやるのであれば今の生産量でも全然足りないでしょうし、そういうことなんだろうなと思います。
家の話ですが、あまり進展はなく、測量が一通り終わったのでデベロッパーからの提案を待つという状況のようです。規模がどの程度になるのかにもよりますが、いくらかでもキャピタルゲインがあればいいなーと思います。
もう一つ近況としては、転職の機運が高まっていることが挙げられます。これは個人の事情というよりは業界の構造的にもう先がないのでは、という状況になってきており、ジタバタするよりは次を考える時期なのかもしれないということです。まあこの年齢でどこかにいけるのか、というのは分かりませんが最近ではシニアの転職という広告もよく見ますので何かしらの市場はあるのでしょう。子どもを保育園に通わせるためにも、労働者という身分を確保することは最優先の課題なわけで、あと2年くらいは働きたいところです。
まあこうして我が近況を振り返ってみると、コロナ禍の影響はけっこう受けているな、という一方で、じゃあそれに対して何ができているのか、というと非常に単純な自衛だけだったりする、というギャップがあります。こうしたギャップと人はどう折り合いをつけていくのでしょうか、というのが今日の話です。
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