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僕らの宗教戦争II/転落のあとで|Weekly

今週は、うでパスタが書く。

支店の二階には裏手の駐車場へと抜ける扉があり、猛烈な陽射しの下に灰皿が立っていた。
「銀行のなかでタバコが吸えないって、やばいよね」
ミーティングの相手は僕のあとから出てくると眩しそうに顔をしかめて話しかけてきた。
「昔は吸いたい放題だったのにな」
男は銀行のシンクタンクからきた研究員で、僕は会社と金融機関との関係強化を担当していた途上、この男とインターネット広告業界についてのディスカッションをするハメになったところだった。
「しかし君たち若い世代はよくやったよ」
男は感に堪えない様子で言った。
「こんなになっちゃった経済のなかでね、あたらしいビジネスドメイン拓いてひとを雇ってるんだもん。ほんと、たいしたもんだと思う」
なんと答えたものかと考えているうちに額から汗が流れ、それを言い訳にして僕はタバコをもみ消すと、しんと空調の効いた支店のなかへと一足先に引き上げた。
後日このことを歳の離れたある知人に話したら、そのひとは
「えっ、『おまえらよくやった』って銀行がそんなこと言いよるんですか、しばいたらなあきませんね!」
と呆れかえっていた。
銀行の、銀行員の事業に対するものの考え方や経営者・起業家に対する姿勢、物言いについては僕も日頃から思うところがある。とはいえ、あの男のそれはまだマシであったと僕なんかは思う。

その日、我々の事業体について意見を交換するなかで男が言ったことに面白いのがあった。
「社是をおつくりになるといいですよ」というのがそれだ。
社是が要るほど立派な仕事はしてないし、十年前にはなかった職業だ。正直に言って経営理念は存在しない。強いていえば生き残ることだけが理念だ。何を社是にうたえばいいのかさっぱり分からない。
「若い経営者の方はみなさんそうおっしゃいます。でもそういう場合には『うちはこれをやる』という経営理念ではなくて、『自分たちはこれだけはやらない』という社是をつくっておくといいですよ、とアドバイスさせていただいてます。立派なものじゃなくていいんですよ。それでもあるとやっぱり全然ちがうね、ってみなさんおっしゃいますから」

こいつはまったく分かっていないな、とそのときは思った。
僕たちは西海岸の気風にさらされて育った風雲児でもなければ、社会変革の理想に燃えるテッキーでもない。もとはただそのとき誰もやっていなかったことにいち早く手を出すぐらい他に人生を慰めるもののない若者たちだっただけなのだ。どうで社是などひねりだせるものでもない。

「我々は暴走しつつあります。スピードだけを重視してきた結果、社内は集団ヒステリーを起こしていて経営のハンドルはおろかブレーキも効かなくなっている。俺たちはこちらを目指す、いま何かを我慢してでも十年先にここへ行くんだというビジョンを示さなければ、いかなる方針の転換も現場レベルでは意味をなしません。なんらかのビジョンを示す必要があります」
当時の社長へ僕が最初にそう迫ったのはおそらく二十五歳の夏で、そのとき僕はまだ花柄のプリントシャツにブーツカットのジーンズで会社へ来るサイケデリックなアルバイトだった。ネクタイをするようになるのはその翌年のことだ。
そのとき社長が言いたかったことは、その何年もあとに僕が銀行の応接室で言ったことと同じだっただろうと今はわかる。だが社長は多くを語らず、椅子の背を倒すと事務所の天井に向かってこううなった。
「うちはなぁ、ビジョンがないのがビジョンなんだよ」
このやりとりはその後数年にわたって繰り返されることになる。そのたびに社長はカッカッと高い声で笑ったあと、「ま、でもいまが踏ん張りどころだからさ。うでちゃん頑張ってよ」と言って話を終わらせた。
「いまが踏ん張りどころ」というフレーズはその五年後には僕自身の口から出るようになり、それは会社がなくなる日まで続いた。その頃にはあの笑い方までが似るようになっていた。

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