Hack Everything Hackable/YouTubeLive配信・BiblioTALK de KINOKO vol.011のお知らせ
この告知は、うでパスタが書く。
“Bad News(悪い報告)は迅速に”、と五百万払って雇ったコンサルタントが言っておりました。もう死んでしまったこのひとが半年にわたるコンサルティング期間に話したことのなかで記憶に残っているのはこの言葉だけです。いまではツイッターにも転がっているようなフレーズではありますが、言葉というのは受け渡し方で全然重さも変わってきますし、五百万かどうかは別としても価値のあるコンサルティングだったと思うようにしています。ちなみにこのひとの訃報が届いたのは比較的遅かったです。
私には大切なことほど後回しにする悪癖があります。
機械式の時計をばらしてまた組み立てるように、心の部品をひとつずつ取り外してそのなかをあらためるというのがカウンセリングのひとつのありようですが、外したネジを床へ落としたりしていると締まらなくなってしまいますので注意が必要です。そんなわけでいまのところ、私のこの「大切なこと」に対する忌避感の真因までには(一〇年にわたる慎重なカウンセリングの果て)いまだに到達しておりません。
いずれにせよお詫びしなければならないこととして、今月のYouTubeLive配信の告知を当日まで遅らせてしまいました。配信は本日、2021年5月18日(火)20時からを予定しており、このweeklyマガジン「九段下パルチザン」を定期購読していただいている方向けの限定配信で、配信URLがこの記事の最後に記載されています。
日本人の非常に弱いところのひとつに「議論を尽くさない」ということがあると思っておりますが、いまちょうどいいので例を挙げると、国会や記者会見で菅総理が一昔前のbotのように繰り返す出来合いの答弁や回答がなぜか国家の一大事として騒がれず「いつものこと」と片付けられるのは本来めちゃくちゃヤバいことだと私は思います。
あるいは五輪相に就任した丸川珠代が現今の状況下における五輪開催の意味合いを「失われた絆を取り戻すため」と発言しておりましたが、「いや誰の絆が失われたんだよ」という戸惑いがさすがに少し広まったものの、これもまたすぐに収まってしまいました。こういう認知的不協和に対する異常な耐久力というのは現代において日本人のハンデになっていると思います。
海外で苦労した友人と話をしておりまして、「言いたいことが日本語で浮かんできて、それを英語に翻訳しているうちは英語は使い物にならない」という話になりました。これは会話に限らず文章を書いていてもそうです。
日本語で書けばなんだかうまくまとまったような「志望動機」みたいなテキストを英語に翻訳して「添削してくれ」とGabaの講師に見せたところ、「たとえが何をどういう意味で喩えているのか分からない」など慣用的に「いけるかな」と思って書いたふわっとした表現や組立をすべて指摘されてやり直しになりました。
もちろん英語を使うひとがすべてこうだというわけではないのでしょうが、少なくともGabaの講師のような高い教育的バックグラウンドを持った英語話者というのはそういう論理的なチェックをしながらライティングをする(それはつまり思考することそのものだと思いますが)訓練を受けているのだなと感銘を受けました。まぁこういうチェックが仮に野党やメディア、あるいは与党にだってできたならば日本の内閣は年に数回倒れているのではないかと思います。
日本語、あるいは日本人によるコミュニケーションはハイコンテクストであるというような表現も最近はよく聞くようになりました。「ハイコンテクスト」というのはテキストの外に前提すべきことどもが存在するということですから、たとえばスピーチそれ自体は論理的に完結していなくても問題がありません。これは要するに「詩」であるということだと思いますが、そういう意味でいえばこの国では政府の要人が議会で詩を吟じており、その解釈をめぐってメディアや国民が論争をしているという文学的な状況が存在するわけであります。
「ハイコンテクスト」だ、「詩」だといえば多少聞こえはいいですが、これは率直にいえばillogical(イロジカル = 非論理的)であるか、あるいは単にナンセンスである可能性すら否定できず、情報を媒介とすべき政治的コミュニケーションにおいてはまったくふさわしくありません。
さらに例をかさねるならば、時の安倍晋三総理が掲げた「アベノミクス」は日本経済再興のための「大胆な金融緩和」「機動的な財政政策」、そして岩盤規制の撤廃などによる「成長戦略」を柱としており、安倍総理はこれを「三本の矢」と名付けていました。
この政策はまず日銀による「異次元緩和」にはじまり、「第二の矢」と呼ばれた財政政策の一環としてオリンピック誘致による需要の創出というようなことがいわれ、第三の矢にあたる成長戦略にいたっては結局放たれることのないまま、今度は「財政健全化」が「第四の矢」と呼ばれた形跡がありますが、その場合には第二の矢と第四の矢が矛盾しておりますし、そもそもアベノミクス自体が成長戦略だとすれば「第三の矢」は存在せず、自己引用的な入れ子になっております。
もっといえば安倍総理の地元を領地とした毛利家に伝わる「三本の矢」の故事は「一本では折れてしまう矢も、三本束ねれば能く耐える」ことを含意としており、一本ずつ順番に放つものではありませんし、本来の用法に還れば三本目がない時点で残りの二本も即座に破断するというのがその意味するところです。
まぁあと「金融緩和」は政府の管掌ではなく中央銀行の独立を侵しているというテクニカルまたはリーガルな問題もはらんでいますし、昨年来叫ばれる「異常な株高による格差の拡大」ですが、大規模な金融緩和によって実体経済が温まる前に株式市場が沸騰するという現象は日本の場合、パンデミックで引き起こされたのではなく空振りに終わったアベノミクスに起源をもっており、本気で非難をするのであればアベノミクスを後押しした経済学者たちの頚を打たねばならないはずですが、これも「コロナだから」とZOOMよろしく背景が切り替えられているようです。
それはそれとしてもあれだけ大々的なキャンペーンが行われた「アベノミクス」のナラティブがそもそもこれだけ非論理的であることを思えば、これが英語ならおそらくGaba講師のチェックにも耐えなかったのではないかと思われ、「トラスト・ミー」とか「アンダー・コントロール」とか、そういうスローガンによる「カマシ」はこれは英語でやっている時点でほぼほぼ無力化されているのではないかなと想像しております。
政治的なコミュニケーションがこのようにイロジカルであることの問題点には、まず第一に「反論が難しい」ということがあります。
「失われた絆を取り戻す」というスローガンに反論しようとしたら普通は「いや、取り戻さなくていいでしょう」という角度から入らなければならないのですが、この場合には「いや絆、失われてないでしょう」という前提から議論をしなければならず、手間がかかります。反論しにくい美辞麗句を故意に誤った前提のもとに打ち出すことで「目的」を守るという姑息な意図が読み取れますが、広く理解と共感を呼び起こしながらこれを切り崩していくには私たち国民の知的な体力・持久力が衰えているということもありますし、繰り返しになりますが日本語の抱える本質的な弱みにもしっかり向き合わなければならないでしょう。
ポエティックな政治的言説の第二の問題点は、このように混乱する議論が記録や記憶にとどまりにくいということです。
ロジカルに記録を残そうとする者にとり議論自体がイロジカルで混乱したものであることは耐えがたく、多くの場合そうした「ノイズ」は歴史からは取り除かれてしまいます。これはテクニカルな問題です。結果、私たちがいま思い出しても「あの五輪、誰が言いだしたものだったのか」「五輪が何をもたらすと考えられていたのか」「それはどういう経路でもたらされるはずだったのか」「それはいまどうなったのか」「開催によってそれはいよいよもたらされるのだろうか?」という筋道は記憶にさだかでなく、結局はいつものように「初志貫徹」「世界に恥ずかしい」「アスリートの心情に理解」というすべてがポエティックな「議論」のなかで私たちはこのパンデミック世界大戦の終幕に五輪を開催するという奇行に向けた国民的合意を形成しようとしております。
今夜のYouTubeLive「BiblioTALK de KINOKO」では、こうしたことを背景にいよいよ一〇年になんなんとするアベノミクス、その最後の「遺産」ともいうべき東京オリンピックはいったい何をもたらすはずで、実際には何をもたらしたのかについて、長きにわたる経済学の迷走を主旋律として適当に語ります。
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