DIG・DAG|2022-11-05
今回は、うでパスタが書きます。
ひところ本邦には「シンガーソングライター」という職業が現れたことがありました。
ちょうど私たちは中高生になろうかという頃でしたので、ラジオで(ラジオで!)聞き知ったままにシンガーソングライター、シンガーソングライター、と口にしておりましたが、これはもちろんSinger, Song Writerという和製英語(たぶん)で、歌手といえば顔が良かったりスタイルがよかったりするアイドルが誰かほかのおっさんが書いた曲をゆらゆら踊りながら唄う芸能人だったのを、自分の書いた曲を、つまり表現として唄うアーティストが徐々に取って代わるようになった頃のお話です。
私個人の考えをいえば、やはり芸術・芸能はその完成度というよりは生々しさを愛したいもので、ご本人の生を背負った楽曲を当人が唄うのは当然であるというように思われます。しかしなぜあの頃に「歌手 = 芸能人」という旧来のスタイルが過去の物になったのかについてはよく分かりません。もしかしたらいわゆるバンドブームが聞き手である若者たちの感性に影響を及ぼしたのかもしれません。
そういえば「アイドル上がり」と長く陰口をたたかれた渡瀬マキがボーカルをとるLINDBERGはロックバンドとして評価を受けるまでにずいぶん苦労をしたという話がありますが、要するに「お人形さん」に過ぎないと看破されてしまったあとのアイドルは割と最近まで不遇の時代を送ったということなのでしょう。
ちなみに「渡瀬マキ」をAmazonで検索すると、無料で読める謎の冊子が大量に出てくるので怖いです。
秋元康がAKB48をプロデュースして現在までにいたる新アイドルブームを巻き起こした結果についてはいろいろと問題も指摘されており、また実際に事件が起こったりもしていますが、社会的な評価・評論にはもうしばらく時間が必要な分野かと思います。しかしビジネスというのはどうしても下品で有害なものになってきますから、それはひとまず指し置いたところでもって虚心坦懐に秋元康を中心にしてこの一〇年あまりのあいだに起こったことを見つめてみれば、あらためてその馬鹿デカさには感心するほかありません。
アイドル評論家のあいだでは「不景気のあとにはアイドルブームが来る」というのが昔から定説だったそうです。小室哲哉やつんく♂といったミュージシャンの「楽器」であった歌手やグループが栄えた時代が終わり、ライブドアショックで日本のプチバブルが自滅した頃にAKB48がデビュー、ブレイクしたことを考えると、それも分からないではないという気がします。
最近は「これを続けていればいつか極楽へ行ける」と念じて写経を繰り返すかのように、朝から晩までSpotifyで気に入らない曲ばかりを聴いています。
なぜ甘んじてそれを受けいれているのかといえば、Spotifyがそのアルゴリズムでもってリスナーの嗜好を判別し、やがて好みの音楽ばかりをサジェストするようになるという機能をばもってひとつの差別化としたいようだからであり、そのアルゴリズムは私のリスニング行動をインプットとして私の嗜好を理解していくことになっているからです。
思えば当時はまだ「DJ」と呼ばれていたラジオのパーソナリティがかける曲から音楽世界が次々に広がっていった一〇代の頃(嗚呼!)、音楽とは出会いによってひらけてゆくひとつのフィールドに他ならず、これぞと決めたアルバムを買いに自転車で近所のレコード屋へ向かい、そのCDが棚に並んでいるのを見付けた瞬間、店のカウンターで何かを仕分けているおっさんの方へ向けて(やるな……)と流し目をくれたような、あれこそが真に「音楽的」な瞬間だったといまになっては思われるわけです。
もっとも、いまこうして四〇代の迷路(嗚呼、、)を彷徨いながらも、思えば会社ではなくレコード屋を訪れるために週に一度は都内へ出るという在宅の会社員が私の身近にもひとりならずいらっしゃいますし、キノコさんなども夜な夜なクラブへ出てはいまも音楽との出会いを求めてつづけているようです。
私が音楽に関してこうしたDIG行為をしなくなったのにはいくつか理由がありますが、いずれにしても手もとに(つまりローカルの記憶媒体に)ある音源ばかりを繰り返し、まさに常備薬かもう少し悪い薬のようにキメながら仕事をしていた二〇年を経て、いまではもうラジオのノリにもついてゆけず(まずジングルがうるさい)、クラブの作法も分からず、また狭い家にはCDを並べるスペースもないというように、音楽に向けた糸口はすべてこの手から滑り落ちてしまったことに愕然とすることがときにあります。
おそらくはこうして私がこどもの頃のおじさんたちも都はるみやサザンオールスターズばかりを聴いていたのでしょう。しかしそれではあの頃のおじさんたちのように精神は停滞し、後退し、体力の減衰とともに物理的に狭くなっていく世界をますます閉ざされたものとしてしまいます。最近の紅白歌合戦に興じる同世代の人間を眺めるときに感じるのもまさにそれです。そこで私は、きわめて現代的な手法としてオンライン・キュレーターに私の精神的なレザレクションを頼ることにしているのです。
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