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カネのいろは/嘘をつく紳士たち|weekly

今週は、うでパスタが書く。

「カネにイロはない」などというやつは、決まってカネに困っている。大きな車を乗り回し、派手な女を連れて高いワインを飲んでいたって事務所の家賃を滞納していたりするのだ。取り立てる方も「何か事情があるにちがいない」と思いこんであまり追い込まないので、こういう人間は見た目ではなかなか分からない。しかし立ち回りには特徴があるので「ん?」と思ったときには直感を信じなければならない。ひとつのパターンとして、ビジネスの話にはとても積極的なのに経験豊かなリアリストを気取って何やかんやと理由を付けては決して自分から手付けを打たないなどというものがある。

繊維業界のひとからこんな話を聞いたことがある。
関西ではカネは口座に入金されるまでカネじゃないと営業マンに叩き込むのだという。
「いや、あそこの社長さんはどこそこに大きい屋敷がありますから」と営業マンは掛けを正当化しようとするが、
「おまえ、カネ見たんか」
「でもガレージに外車三台停まってますし」
「いやおまえはカネ、見たんかて訊いてんねん」
と言って詰めるのだと話していた。
この話を聞かせてくれたひとはすでに世を去って亡いため、あらためて話を聞くことは叶わない。どうやら自ら死を選んだということのようだがはっきりしたことは分からない。彼の話したことのなかでは、このエピソードだけが僕の記憶に生き生きとして残っている。

その一方、ひとがそれほど困っていないときにはカネに明確な「色」がついていることが分かる。特にいまから事業をやろうというひとがカネを募ったりするときに、それが明らかになる。「カネのイロ」とはつまるところ、それを出すひとの色、どの手からそのカネを受け取るかという話だ。

「誰からどんな風に受け取ったのであれカネはカネであって使いでがある」というのは子どもの頃の僕にとってはまだ当たり前の話だった。僕はもちろん親がクローゼットに貯めていた小銭をくすねていたし、通学路にあった石の下へ誰かが隠したカネを仲間と一緒に着服し、折に触れ駄菓子を購っていた。
しかしそれがどうも大人にとってはそこまで簡単な話でもないらしいということを最初に学んだのは小学六年生の夏、赤川次郎の「子供部屋のシャツ」を読んだときで、これは赤川にはめずらしく最後まで読んでもトリックが明かされず、「なんだホラーだったのか!!」と気付いてようやくゾッとする、そういう小説だった。
ここには会社役員の不倫相手になるシングルマザーが登場し、初めて寝たとき男がベッド脇へ置いていった数万円をどうしたものかと思案するが、結局「カネはカネだ」と自分を納得させる。持ち帰ったそのカネで休みの日に子どもを遊園地へ連れていき、アイスクリームを食べさせて母親は生活にひと息をつく。
小学生の僕がすでに児童書を読まなくなったことに関して母はずいぶん嫌そうな顔をしたが、その顔を最初に見せたのは僕がこの本を買ってきたときだった。

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