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漂流生活11日目。
昨晩の雨のおかげで飲み水は確保できたが、空腹と直射日光が体力を奪っていく。まだ2週間も経っていないのに正気を失いそうな瞬間が何度もある。もっと自分は精神的に頑丈だと思っていたので、やはり人間はこういう状況に陥ってみないことには本当のところは分からないものだ。本は持っているがこの揺れと直射日光の下で読むのは無理だ。想像の世界における海の上でのゆったりとした生活には揺れも、風も、潮の匂いも、刺すような直射日光もない。人間の想像力というのは確かに豊かなものだろうとは思うが、都合よく情報を取捨選択しているし、それを自覚すらしていない。海が好きだと思っていたけれど、三日目くらいでもう十分だと感じた。なぜこんな事になってしまったのか、ということを、物語などでは回想したりしているが、とにかく生き延びることに精一杯でそれどころではない。日が暮れたら何も見えないし、寝るしかない。満天の星が夜空に瞬く、というのは事実だがメガネを失くしてしまったので何も見えない。文明から離れては生きることができないのだということを痛感し、それでもなお諦めることができずに流されるままに生きており、この先何日生きられるのかも分からないし、いつ船に助けられるかも分からない。望み、というのは状況が見せる幻想であり、状況を正確に把握すればするほどその現実的な確率というものから、人は希望を抱かなくなるのかも知れない。
彼女はモノローグを読むのが好きだ。一人称視点で書かれた文章は感情移入を容易にし、何より読んでいて臨場感があるしドライブがかかるような気がするのだそうだ。朗読、というのはただ書いてあることを声に出して読むわけではなく、作者の意図した間や抑揚といったものを読み解きながらそれを表現していくもので、これも1つの表現活動であろうと思う。キャラクターの名前を間違える登場人物はいないわけで、その物語世界に真摯に向き合えばこそできる表現というものがある。寝しなに親が子に本を読み聞かせる時のおざなりなそれとは異なる、こちらではなく、あちら側で読む者にしかできない読み方というものはあるように思う。
とはいえ、ぼくは耳から情報を得るのはあまり得意ではなく、彼女の音読はどちらかというと内容を聞くというよりは断片的に脳に刺激を与えてくる音楽のようなものだと捉えている。彼女もまた、その世界の中にいることはいるのだけれども、ストーリーとを把握している作者の視点ではないので、本当に嵐に翻弄され、漂流生活に苦しみ、またあるいは世界のパニックに恐れ慄いているように読む。本をどのように読むのか、というのは自由であるべきだろうと思うし、その内容について批評を書くのでもなければ正確性を重んじる必要もそれほどないのであろう。この世界において、我々が生きるこの瞬間にきっかけをもたらしてくれる鍵のようなものだともいえる。
700年ほど前に地球に訪れたいわゆる宇宙人たちは、好奇の目で湾岸のタワーマンション群を見ていた。構造的に興味深いというよりは、過去人類が蟻塚を見た時に感じたそれのようなものを宇宙人たちも感じたのだろう。いくつかの蟻塚、もとい、タワマンは一瞬で廃墟になった。まさか中に人間がいる、ということは想定していなかったのか、あるいは、それこそ人類が蟻に対して抱くような感覚で破壊したのかもしれない。
それからいくばくかの時間が経ち、コミュニケーションというよりは、それぞれの生活領域というものが明確になるにつれて出来上がった領分ともいうべきものが自然と形成され、今こうして地球は大きな宇宙の一部としてその連なりの中に組み込まれているわけだ。
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キノコです。
現実逃避、という言葉がありますが逃避する先が現実でない以上、我々の想像力や知識、教養といったものがその逃避先の世界の豊かさを規定するわけです。つまり、つらい現実に向き合った際に人が狂うのはそういうことです。脳がその機能として生み出すものに現実との整合性を求めるのはナンセンスですし、それを日常の延長として捉えようとすれば一貫性を求めるほどに気が狂うことは想像に難くない訳です。これからますます頭がおかしい人が出てくるでしょうし、それは反応としては想定の範囲内であり、至極真っ当なことだと言えるでしょう。
ゾンビというのは非常に優れたメタファーで、人間のような見た目をしているが思考力を失い、死ぬこともできない、そして感染するという特徴を備えています。まあ優れた寓話というのは人口に膾炙するもので、何度もリメイク、マッシュアップ、リミックスされるのは当然でしょう。人はみなどこかしら自分の中にある、意識できないゾンビのような要素に怯えているのだということが推察されます。
ゾンビとの共存、という点では『パンドラの少女』という小説がなかなか面白いのですが、まあさておき、回帰すべき日常を失ったいま、次の生活を築いていかねばならないわけです。走りながら考えろ、というようなことはベンチャー界隈ではよく言われることですが、これからしばらくの間は我々全員が走りながら考えることを余儀なくされるわけです。幸か不幸かキノコは走りながら考えるというか、走ることがそもそもないので初めての経験に若干の興奮を覚えないと言ったら嘘になるでしょう。
TVを見ながら食事をしていると怒られたものですが、走りながら考えたり、考えながら走ったり、次々と新しいことを並行してやり散らかしていっても多少許されそうな世の中になるというのはよいことだと思います。失敗が許されない、絶対成功するPoCみたいな矛盾について説明する必要がなく、未知のものの圧倒的な力によって成功することが約束されていなくとも挑戦することに価値を見出すようになるというのは、かなり劇的な変化でしょう?
というわけで、本日は何を船に載せてきたのか、という話です。
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