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「山手線の外側のことはよく分からない。彼女はしばしばそう言う。それは港区なんとかがいうようなマウンティングを意図したものなどではなく、本当に行ったことがないので分からない、という実感を伴う発言だった。新宿より向こう側の中央線沿線は夕方のニュースで見る商店街などがあるエリアで、東京都と言われても何区なのか瞬時には分からない。学校は千代田区で、住んでいるのは文京区、親の仕事は千代田区か中央区、遠くても港区程度で、それもそもそも区という単位ではなく、メトロの駅名で分かる位の範囲でしか過ごしていない。それで事足りてしまうし、それ以外のエリアに興味を持って足を伸ばす理由もこれといってない。地方出身者が東京に住む際に23区の地図とそれ以外の東京都下市町村、そして埼玉千葉神奈川を比較するのとは違う。地方出身者は人生に何度か、あるいは何度も、東京近郊を俯瞰で見る機会に恵まれる。その際に、自分の生活圏内だけではなく、周囲に目を向けることになる。ちょうど外国旅行に行く際に、日本とその国の距離感を世界地図で把握する際に日本の大きさを改めて見て驚くような感覚に近いのだろう。細長い島国は、決して大きな国ではない。しかしこの中に1億を超える人間がいるのだ。特に東京近郊にはその3分の1が暮らしているわけで、いわんやその人口密度たるや、という話だ。

そう、だから彼女はある意味では自分自身の世界は狭いので、ということも言っており自覚はあるのだろう。それを広げようとも思わない、というのは生き方の問題であって、それが責められるいわれはないだろう。つまり、生まれ育った環境が違い、それゆえの認識の違いなのである。

ひとは自分と異なる認識の生き物に出会った時に様々な適応姿勢を見せる。敵対、同化、無視というのはその中でもよく見る反応だ。社会集団の中で人は何かしらの態度表明を求められる。分かりやすくいえばさっき挙げたように、敵対、同化のどちらかと問われるわけだ。本来アイデンティティというものは集団への帰属とは別に、その人がこの宇宙のこの時空間に生まれ落ちたという確固たる個別性に基づく生の驚きとともに実存に結び付けられて捉えられるべきものであり、どこそこの誰それの家に生まれた何番目の男女どちらであるか、というのはどうでもいいことだ。だってそうだろう、宇宙人に遭遇した際に、私は港区民だと言ったところで、何だそれは、という話になる。港区ということばだけなら名古屋市民だって知っているが、名古屋市民にとっては港区というのは東京で言うそれとは異なるものを意味するのだ。それこそ、井の中の蛙という話でしかない。

問いというものはその人が何にこだわりを持っているのかを指し示す大事なサインだ。いまは何を読んでいるんですか?という質問をする人間は読書が生活の一部であり、常に読みさしの本があることを示している。その際に地図です、とか看板ですとか、空気ですという人間は相手にされていないことを自覚すべきだろうが、そもそも認識の次元が違うので、話が合わないのも仕方ない。IQが20異なると話が合わない、という話題は定期的に出てくるが、IQというものを大人になってからどのように測るのかを知っている人間などそう多くはないわけで、それこそIQ以前にレベルの低い話であることは言うまでもない。

多様性教育というものは世界には人の数だけ認識の相違があるものだということを知らせること、また、そのような異なる認識を持つ人間同士が各々のアイデンティティを歪めたり損なったりせずにともに生きていくためにはどのような距離感でどう接していくべきなのか、を考え続けて行動に移していくことであるというのを教えることだ。」


彼女はいつものように音読を終えると、水を飲み喉を潤してからこちらに向き直った。窓の外には珍しく月が出ており、地球の軌道がズレてから周期が変わってしまい、天文学者もまだ解析中とのことだという話だった。月が破裂して小さな複数の月に分かれるという話は昔からSFで描かれていたが、SFに書かれるようなことが実際に起こるというのを体験していくのが人類史であり、予言というものを知るためにもSFを読むことは重要だったのだろう。

海面の水位が上昇するということも何度も言われていたにも関わらず人類は湾岸にタワーマンションを建設し続けた。それがどういう目算のもとに行われた決断だったのか、というのはもっと問われるべきなのだろうが、居住者は皆早々に湾岸を遺棄してしまったし、正直なところ責任を追求するよりも日々生き延びることの方が重要で、そういう時代になってしまったのである。塔に象徴される高層建築物というのは崩壊の予兆でもある。それは驕りとともに語られるが、自然法則に立ち向かうという意味では驕りであるが、工夫と挑戦でもあり、限界を超えていくという営みの一側面でもある。ただ、往々にして塔を建てるものと塔に住まうものは別であることが知られており、塔の上に登るのはゴリラであることも知らているので、手放しに称賛できるものでもないわけだ。

相対化と言ってしまえばそれまでなのだけれども、立ち位置を変えて見てみるというのは大事なことで、退けない判断をする時にでもあるいはという可能性を考慮するというのが戦略というものだろう。信じることと他の選択を考慮しなくなることは違うので、信じつつもその先を考えるというのが人の生きる道なのではないだろうか。

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キノコです。

毎週末オンラインでイベントが行われており、耳が2つでは足りないなと感じます。Twitchで配信をするDJが多いわけですが、TwitchってAmazon傘下なんですよね。なんか、あー、となってしまいます。そう、配信の世界においてもAmazonの影響下にあるわけですね。一時期IT企業がこぞって、プラットフォーマーになるんだ!目指せ1兆!と言っていたのはなんだったんでしょうか。やはりコンテンツメーカーとユーザー、ファン、サポーターを繋ぐという使命が大事なのだろうなと。まあゲームの実況配信というのを全然見ていないので成り立ちが正直よく分かっていないのですが、ITメディアの分析を待ちましょう。

さて、緊急事態からなし崩し的に緊張感が失われつつあるわけですが、実際のところ羹に懲りて膾を吹くという話が出始めるのも間もなくだと思われます。終息と言っていいのか分かりませんが、専門家の皆様はどう捉えているのでしょう。経済に配慮が足りない、という発言そのものが専門性というものに対する無理解の表れだなと思いますが、複数の専門領域の人々をアサインしマネジメントするのは政治や行政の役割なのではないでしょうか。まあ何かというとスーパーマンを求めてしまうというのは新卒採用の募集要項などを見ても分かりますし、個人の能力に対する過信というか、専門的な研究をしたことないんだろうな、という感じがしてしまいます。できることは限られているよね、だから協力するんじゃないの?と。というようなことを考えつつ日々過ごしております。

本日は住むところを選ぶ話です。

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