「かたあしだちょうのエルフ」|2023-10-22
今回は、うでパスタが書く。
果たして現代においてもこどもには本を読ませることが必要なのだろうか、根本的な「リテラシー」とはいまもやはり読み書きであり、順序として当然先にくるべき「読む」という行為はこどもの認知・学習能力を育むにおいて避けて通ることのできない、それほど人間の人間性と深く結びついた行為なのだろうかという話は以前に書いた。
つまるところ、人類の大部分にあたる我々が日常的に(その気になれば)ものを読むようになってからはたった五、六百年しか経っておらないのであり、これは進化の歴史に照らせば一瞬にも満たない期間である。それにもかかわらず本を読むこと、文字から情報を摂る鍛錬がこどもの認知的・精神的・内面的成長にそれほど不可欠であろうはずがないという考えは、私のなかでは確信に近い。しかし実際には私もこどもの識字・読解能力の若干の遅れには強い焦りをおぼえている。これがなぜなのかについてはまた日をあらためる。
思えば大学で「言語表象論」とかいう一般教養の講義をとっていた頃、高橋世織という異常な文化人が教壇に立ち、「私は自分のこどもに本を読ませていない。これは文字から受容される情報は極めて定型的で限定的だからだ」と「言語表象論」とは思えない話をしており、私も私でいかに自分は型破りであることができるかを問われた学生時代であったにもかかわらず「普通に虐待ではないのか」とドン引きしたものだ。
しかしもちろん、本は読まずとも人は育つし、そういう人は世の中にたくさんいる。
あわてて区の図書館へ駆けつけ、正確には駅前にある「図書館カウンター」というところへ行って、ところでここは書架が開いたものも閉じたものも存在せず、ただ取り寄せと返却ができるだけの施設だ。しばらくのあいだ、これがうちのこどもには適当であろうと目したとあるリストを片手にガチャガチャと端末を操作した末に十四冊もの児童書を予約した。すぐに、というのは二日後のことだがそのすべてが届いたという連絡が来てしまい、要するに私が参照したリストをもとにこどもの読書計画を進めている親はあまりいないということなのだろうが、仕方なしに全部をいっぺんに借りてくることになってしまった。
私自身はいまのうちの子の年頃に読んだ児童書の類いをほとんど覚えていない。そして児童書のラインナップは案外刷新されているもので、推薦図書は古くても二十年ぐらい前に出たものだから、その頃私は本を読むどころかそんな暇があれば稼げるうちに一円でも、あるいは一銭であってもメーク・マネーだと言って、言われて、東京都庁から新宿御苑までの狭い街を駆けずり回っていたためこうした本や著者の存在を、そのリストで目にするまでまったく知らないでいる。
そこで借り出してきた本もどこから手を着けたものか思案するのだが、なかに一冊だけ私にも覚えのある、つまり例外的に非常に古い作品が含まれていて、では今日はこれを読もうということで取りあげたのが「かたあしだちょうのエルフ」だ。
この童話は、果たしてどういう物語だったのであろうか。
作者はこのお話を世に問うて、こどもたちに読ませることで何を伝えたいと思ったのか、あるいは作者のこれは「表現」であって、この不幸によって異形の、巨大なだちょうとなったエルフの理不尽に流した涙のその哀しみを読者の心に呼び起こそう、とそういうことに過ぎなかったのか、なぜ私たちは半世紀ものあいだ、こんなに暗い、しかもわざわざ現実離れしたストーリーによって生み出された哀しみを引き渡されながら「かたあしだちょうのエルフ」を読み継いでいるのか。「かたあしだちょうのエルフ」を読んだことのある人生、そのストーリーを心に刻んだ人生とそうでない人生とのあいだにどんなちがいが生まれ、生まれてくるのだろうか。
ここから先は
¥ 100
九段下・Biblioteque de KINOKOはみなさんのご支援で成り立っているわけではなく、私たちの血のにじむような労働によってその費用がまかなわれています。サポートをよろしくお願いいたします。