![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/153527941/rectangle_large_type_2_c49e9e49f8e884c9cddff9f70fe6979c.png?width=1200)
恋愛のありかたは可変的である:村田沙耶香『消滅世界』を読んで
不倫という言葉について考え続けている。
それは、某アーティストが某タレントと不倫をしたときからだ。私の推しであったそのアーティストが社会で干されたとき、高校生だった私はなんとしてでも擁護したかったのだと思う。推しへの肩入れがあった。
しかし、そのアーティストの妻がどれほど傷ついたかについて考えたことがなかった。浅はかだったとしかいいようがない。
しかし、「不倫はよくなかった」で済ませていい問題なのだろうか?もちろん、不倫はよくないと言わざるをえない場合もある。現代日本ではそういう風潮がある。
それでもなお、我々は問うべきだろう。不倫が悪とされてしまうのには、社会的背景があるのではないか。また、もし仮に不倫を肯定できなかったとしても、不倫への言説の背景を見ることで、我々の恋愛の仕方を再考できるのではないか。そういう考えを深めるきっかけを村田沙耶香の小説は与えてくれる。
『消滅世界』によるラディカルな異性愛主義批判
村田作品においては、必ず「性」のあり方が問題とされている。私はこれまで『コンビニ人間』『授乳』『白色の街の、その骨の体温の』『星吸う水』などを読んできたが、いうまでもなく、現代のロマンチックラブないしヘテロセクシズムのあり方が問われている(この点については『消滅世界』の斎藤環解説を参照されたい)。
たとえば、『コンビニ人間』では、「普通」に働き「普通」に結婚することを選択しなかった/できなかった人間が描かれている。主人公は、結婚し、子供を生むという選択をしなかった30代女性だ。我々は読み進めるほど、この世で是とされている恋愛のあり方の歪さに気づくのである。
そして、村田の代表作である『消滅世界』はもっともラディカルに性のあり方を問う作品であると言える。念のため、その舞台を確認しておこう。
この小説では2つの世界が描かれる。1つは、性交ではなく体外受精が当たり前となり、夫婦間でのセックスがなくなった世界だ。もし夫婦間でのセックスが行われれば、それは近親相姦として罰せられる。では、夫・妻それぞれの性欲が向かう先はなにか。自分で済ませる場合もあるし、(これが一番意外な点であるが)夫または妻とは別の恋人を相手とする場合もある。これは現実社会では不倫として扱われるだろう。が、この小説ではむしろ推奨されている。また、性欲の対象も推しのキャラクターである場合もある。これも広く受け入れられている。
もう一つの世界は、千葉県を実験都市とした場所、「楽園」だ。さきの世界よりもよりドラスティックに恋愛のあり方が変容させられている。もはや家族というものが解体された世界だ。体外受精した受精卵を人間の子宮に着床させる(男性の場合は人工子宮)が、そこで生まれた子供は、「こどもちゃん」として均一な育てられ方をする。「こどもちゃん」たちの実の母親・父親というのはそこでは問題とされず、「おかあさん」として、均等に「こどもちゃん」たちを育てる。さらに、性欲は無駄なものであるという観念が支配的になっており、最新の設備「クリーンルーム」で性欲を発散できてしまう。
「消滅世界」はユートピアでもディストピアでもない
斎藤環解説によると、この世界は男性にとってはディストピア、女性にとってはユートピアとされるらしい。まず、ユートピアとされる所以を考えてみたい。ユートピアたる所以はいくらでもあげられるが、とりあえず3点のみ挙げる。
第一に、より自由な性欲のあり方が認められている。現代社会はロマンチックラブが推奨される風潮があるが、「消滅世界」ではむしろ逆の様相を示している。夫婦間のセックスが近親相姦なら、そこでは愛情と性欲が一致していない。これは、セックスに悩む夫婦にとっては朗報だろう。たとえば、夫の性の捌け口として、妻が嫌々セックスに応じる必要がない。無理に性欲を駆り立てる必要もないし、あったとしても性欲を目の前の生身の人間に向ける必要はない。
第二に、近代家族の枠組みから解放される。「楽園」では、従来の親と子の関係が解体されている。結婚を強制されない。親戚の世話を親族だからという理由でしなくてよい。家族に気を取られず自分のキャリアに集中できる。家族から解体されれば、心身ともに負担がグッと減る。さらに、子供目線でいっても、魅力的だ。閉じ込めた環境の中で育たなくて済むから、親の期待に応えなければいけない重圧や、家庭内暴力から逃れることができる。
近代家族の枠組みで抑圧されてきたのは女性である。女性というだけで家事や子育てを任されたりする必要がない。もちろん「子供ちゃん」を安定的に出産できるとうい点で、女性は生殖する機械としての意味を強く持つだろうが、現実社会に比べれば相当程度ジェンダー平等が実現してきているといえる。
第三に、この世界では、遺伝子を残そうという発想が捨てられている。村田は桐生夏生との対談で、自分の遺伝子を後世に残そうという家父長的な名残を批判したことがある(https://baila.hpplus.jp/health/women/49367 )。その問題意識からか、「楽園」ではそのような発想が退けられている。どの親であるか、親自身は知り得ない。いや、その必要すらない。家族は解体され、「こどもちゃん」すべての親として生きるからだ。
こうしてみると、「楽園」は魅力的に映る。ユートピアといって良さそうである。
しかし、ここで我々は立ち止まらなければならない。本当に、その世界に問題はないのか?ユートピアであると両手をあげて称揚してよいのだろうか。さまざまな懸念点があるが、大きなものを取り上げよう。
第一に、優生思想とセットであるという問題である。「楽園」では全員がおかっぱの髪型をしており、均一で優秀な子供を育てることが是とされている。そして、雨音が特別に生まれたばかりの「子供ちゃん」たちに立ち会うとき、看護師は「あの中から、健康な子を選んで『赤ちゃんルーム』に移動するのよ。」と告発するが、選ばれなかった子供は殺されてしまうことが暗に示されている。このように、均一な労働力を安定的に供給し、そうでない「不良な子孫」は残さなくて良いとする政策は、実際に優生保護法として存在していた。それが優生思想を増幅させ、さまざまなヘイトクライムを産んできたことはいうまでもない。
第二に、性欲が人間にとって効率を阻害するものとして捉えられている点である。たしかに何か理性的な活動をしたいとき、性欲は邪魔だ。そうであるが、我々は性欲自体を否定し仕舞い込む必要はないのではないだろうか。
例をあげよう。この作品の設定で私がどうしても飲み込めなかったのは、男性の性欲が減退しているという点である。実際、主人公の恋人・水人が登場するが、挿入を伴うセックスが苦痛であると吐露した。このように、性欲が全面的でない男性ないし女性が多く登場するが、これは不自然な想定ではないだろうか。たとえ「楽園」のような世界が実現したとしても、現実社会で主流の挿入を伴うセックスが後景に退くとは限らない。むしろ、現代のように性が一大産業として展開され、性の客体化・商品化が野放しになっていれば、歪んだ形で性欲が噴出しかねないだろう。
第三に、生殖に国家が介入していることである。ちなみに、「楽園」は決して実在する社会と完全なパラレルワールドではない。たとえば、現実の社会では体外受精をするという点を除けば、女性は子宮で子供を育てるという役割を逃れていない。安定的で持続可能な労働力を供給するために国家が生殖に干渉することは、「消滅世界」においても同様だ。60万円を国家が支給する代わりに単身女性を地方に移住させるという方針が日本政府から出されたことは記憶に新しい(これは撤回されはするのだが)。本来、子供を産み育てる選択は親にあるはずである。国家が生殖を是とし介入するようになれば、生殖ができない人に対する差別が蔓延することとなる。
ここまで見れば明らかなように、我々はディストピアかユートピアかというディベート的二項対立でこの物語を語ってしまってはもったいない。「楽園」をユートピアであると確信し雨音は、夫婦間のセックスで自身を産んだ母親を監禁し、ペットのように扱う。それは、ロマンチックラブは動物的なものであり否定されるべきという意識の反映だろう。しかし、雨音のようにロマンチックラブやヘテロセクシズムが蔓延する現代を「ディストピア」として退けるのではなく、「楽園」を通じて得られる知見を生かし、現代を再考する方が生産的である。
不倫再考
このように見た時、我々は現実社会で恋愛のあり方について考えざるを得ない。もっとも将来的に、この世界が実現する可能性は低いだろう。いくつもの生命倫理の問題があるのはいうまでもない。
このような世界を経由することで我々は、恋愛のあり方は社会的に形成されるものであることに気づく。雨音は「楽園」に足を踏み入れてからというもの、「楽園」を気に入っていたとは限らない。自分の遺伝子を残すことに関心があったし、性器を用いた性交を続けいていたからだ。しかし、「楽園」に住む時間が長くなれば、のめり込む立場に変わってしまう。「楽園」という新たな社会に身を置けば、人間は価値観をその社会に合うよう転換させ、恋愛どころか、性欲のあり方も変容させてしまう可能性がある。社会が変われば、恋愛観も変わる。
ここまで見たように、『消滅世界』はこれまでの村田作品のエッセンスを組み込みながら、もっともラディカルに現代の恋愛のあり方を問うた作品である。ユートピアとして理想化するわけでもなく、ディストピアとして鼻で笑って終わるのではなく、この作品を経由して我々の生きる社会の恋愛のあり方を再考するべきである。そして本節では最後に、冒頭で提示した不倫の問題を考えたい。
『消滅世界』をヒントに、不倫が悪である理由を探れば、それは「性愛と生殖が一致しているから」ということになろう。我々の生きる社会は、愛し合ったものと子供を授かり、産み育てることが理想とされる。セックスが夫婦外で行うことは、この理想から外れてしまう。それゆえに、悪とされるのである。この夫婦外のセックスは悪だという論理が派生して、結婚をしないカップルの中にも不倫を悪とする観念が根付いていったのではないだろうか。
こうしてみると、近年注目される「セカンドパートナー」についても再考を迫られる。セカンドパートナーとは、夫婦関係を結んだ2人がそれぞれ別の人間と恋愛関係を結ぶことである。これは、夫婦間でのセックスを無理に行わなくてすむから好ましい。「恋愛」の論理を夫婦間で相対化される分、よりしがらみのない、悠々自適な夫婦関係が結べるはずである。このように「消滅世界」を経由し、不倫の問題を考えることで、「不倫」と呼ばれることの積極的な意味すら見出されるのである。
私は(望まない妊娠が発生した場合などを考えると)セカンドパートナーが最善の策と思わないし、ましてや「楽園」も理想としない。とはいえ、私たちが不倫を悪として虐げることによって思考停止していてはいけない。現代が理想とする恋愛が我々の首をどう締めているのかをじっくりと分析し、より開放的なユートピアが実現されるよう、『消滅世界』をヒントに考え続けたい。