クリスチャンはどのようにしてサタンの誘惑に打ち勝つことができるのか

兄弟姉妹の皆さん

     皆さんに主の平安がありますように。神を信仰し神に従う過程において、あらゆる種類の霊的な戦いが起こることは少なくありません。お金、地位や肩書きに関連する誘惑、男女間の誘惑、不信仰者からの誹謗中傷、愛する者からの妨害や圧力、さらにサタン的政権による追跡や迫害もあります。時に全く思いもよらない苦難に遭うこともあります。聖書にはこう書かれています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(ペテロの第一の手紙5:8)そして神の御言葉はこうです。「地上には、あらゆる悪霊が果てしなく休みどころを求めてさまよい、いつも食べるための人間の死体を探している。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より)サタンは一時も私たちの側を離れません。悪知恵を働かせ、人や出来事や物を用いては誘惑したり、試練を与えたり、迫害したりしようとし、私たちが悪に染まり、災難に見舞われ、神から離れ神を欺くように仕向けようとするのです。最後には、私たちがそうした悪にまるごと飲み込まれてしまうようにするためです。真理に欠けている人は識別力にも欠けています。はっきりと霊的な戦いを見極められなかったり、神の御言葉に自己を固持していられなかったりする人は、肉の利益や好みを追い求めがちです。そしてサタンの罠に落ち、自らの証しを失うのです。クリスチャンとしては、サタンの策略をいかに見極めるかを学ぶことは重要です。それでは霊的な戦いの只中にサタンの策略を見極め、神に証しできるようになるためには何をすることができるでしょうか。ここで、皆さんにサタンの誘惑に打ち勝つための三つの実践の道についてお話したいと思います。

      一つ目に、サタンの誘惑に直面したとき、神に祈り、真理を求めなくてはなりません。それは神の御心を理解し、サタンの策略の餌食にならないためです。

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     サタンは邪悪で非常に残忍です。サタンの誘惑はどれも人々の繊細なところや致命的な弱みに付け込みます。人の一番弱いところから始まり、それはちょうどエバに善悪の木から実を取って食べるようそそのかしたあの誘惑そのものです。そのような時にいつも人は自分にとって自然なことを露呈しがちで、行動において個人的な利益や好みを追い求め、サタンに付け込まれやすいのです。だからこそ、霊的な戦いに直面したときには、まず神の前で落ち着いて祈り、神の御心と神が要求なさることを求め、証しを立て神に満足していただくためには何をするべきか、肉を満足させればどんな被害や結末が待っているのかを知らなくてはなりません。そしてひとたび真理を理解したら、自然とサタンの策略を見通し、誘惑に打ち勝つことができます。主イエスが「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイによる福音

   「神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの「衛星テレビ放送」は地上で受信できないように神が定めた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に「住む」ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその內面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って「遊ぶ」ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに來ようとはしない。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十七章」より)

     さて、聖書に書かれているヨブはサタンの試みで財産も子供も失っても何も言わず、財産を奪い返すために人をまとめて強盗と戦うこともしませんでした。それどころかヨブは神の前に行き祈り求め、それにより自分がそれまでに手に入れたものは自分の能力で得たものではなく、神によって与えられていたものだと理解するのです。その時ヨブは自分が経験した損失も神がお許しになったもので、すべての出来事や物事は神の手中にあるのだから、人類は従順でいなくてはいけないということを理解しました。そういうわけでヨブは「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)と言ったのです。ヨブは神を証しし、サタンに恥をもたらしました。私たちの現実の生活には、神を信じ教会の働きをしてきたのに、肉の快楽や富を築くことを語る家族や友人にそそのかされる人がいます。結果的にこういう人たちは神を見捨て、お金を稼ぐことを選びました。集会への出席日も神の御言葉を読むことも徐々に減っていき、ついには邪悪な傾向に完全に捕らえられてしまいます。真の信者が同じ境遇に直面するとき、内面で奮闘しますが、それでも神の前に行き祈り、神の御心と神が要求なさることを求めることができます。そして神の御言葉を通して肉の快楽、つまり何を食べるか、何を着るかといったことはすべて一過性のものだと理解できるのです。どんなにその楽しみが大きくても、それには意味がなく、ただの空虚と苦しみです。そして人が快適になりすぎると、いとも簡単に悪の道に堕ちてしまうのです。また、神がある使命とともに、私たちが果たすべき任務とともにこの世界に私たちを導いてくださったことも真の信者は認識しています。私たちは真理を求め、神の御言葉を実践し、本分を尽くすことに集中しなくてはなりません。聖書に書かれているとおり、私たちはこの世の旅人、寄留者です。クリスチャンならば衣服を身につけ、食卓に食べ物があることに満足すべきなのです。ひとたび神の御心を理解できた人は、富の関心事にとらわれなくなり、本来あるべき信仰を持ち、創造物として本分を尽くすことができるようになります。ここから明らかなことは、私たちが霊的な戦いにおいてサタンに打ち勝ちたいなら、祈り、もっと神に頼るべきだということです。真理を本当の意味で理解することでのみ、サタンの策略を見破り、神に証しすることができるのです。

     サタンに打ち勝つための二番目の方法ですが、サタンの誘惑に直面したとき、霊的な戦いとはサタンが神に選ばれた人々を攻撃し、神に挑んで賭けをしていることだという事実に気づかなければなりません。神の側にしっかりと立つことでのみ、勝利を得られます。

     サタンは神の憎い敵です。神や神に創られた人類を憎み、特に神を信じる人たちを憎みます。そのような人たちが神を畏れ、悪を避けるからです。だから誰かが信仰を持って神へ向かうと、サタンはあらゆる手を使って誘惑したり、邪魔をしたり、混乱させたりするのです。あらゆる人や出来事や物を用いて、人が否定的で弱々しくなり、神を否定し、神から距離を置き、ついにはサタン陣営に戻るように策略を講じます。ヨブが試されたとき、ヨブの財産を奪い去ったのは強盗であり、ヨブの家が崩れて子供達の命を奪ったことを人々はその肉眼で見ることができました。でも実際にそのすべての裏にあったのは霊的な戦いなのです。あれはサタンが神に挑んだ賭けでした。もし私たちが霊的な戦いの裏にある真実を見極められず、人間としての見方でしか物事の善し悪しを推し量れないなら、サタンの策略にまんまと引っかかり、神との距離を広げ、神を裏切ることになってしまいます。神の御言葉の中で明らかにされていることは次のとおりです。

    「神は働き、人を慈しみ、見守りますが、サタンは神をどの段階でもつけ回します。神が大事にする人が誰であれ、サタンも見ていてつけ回します。神がその人を求めると、サタンは持てる限りの力でどんなことでもして神を阻もうとし、隠された目的を達成するため、様々な邪悪な方法で神の業を試し、邪魔し、挫折させようとします。サタンの目的は何ですか。サタンは神に人間を誰も得て欲しくないのです。サタンは神が求めるすべての人を求め、占有して支配し、掌握してサタンを崇拝させ、サタンと共に邪悪なことを行わせたいのです。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないですか。よく普通、サタンは邪悪である、悪いと言いますが、あなたがたはそれを見たことがありますか。あなたがたが見ることができるのは、人間がいかに悪いかだけで、サタンが実際どの程度邪悪であるかを見たことはありません。……サタンは神と戦い、また神をつけ回しています。サタンの目的は神が行いたい業をすべて粉砕し、神が求める人間を占有して支配し、完全に消滅させることです。もしこのような人々が消滅させられないならば、彼らはサタンのものとなってサタンに用いられます。これがサタンの目的です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身4」より)

     終わりの日に、神は神の家から裁きの働きを始められました。全能神の終わりの日の働きを受け入れた後には、かなりの人々が困難に遭遇しました。例えば、兄弟姉妹の中には信仰を得た直後に家族から反対されたり、圧力をかけられたりした人がいます。配偶者から真理の道を捨てなければ離縁すると脅された人もいます。中には突然病に倒れたり、思いもよらない災難に見舞われたり、家族に不幸が訪れたりした兄弟姉妹もいます。こういった出来事に直面すると、多くの人が観念をもちます。「以前は主イエスを信じていて、何もかも平和でスムーズだったのに、もうそうじゃない。今の信仰は間違っているのか?本当の神様を信じているのなら、物事は上手くいくはずじゃないか!」その結果、否定的で弱々しくなる人がいたり、神の働きに疑いの目を向け始める人がいたり、信仰を捨てる人もいたりします。このような状態になってしまうのは、その人たちが霊的な戦いの真実を見極めておらず、サタンの策略を識別することができないからです。実はこういった問題に遭遇することがまさにサタンによる障害や混乱なのです。サタンは私たちが本当の神を信じていることをわかっていますし、神が人類を救うために来られたということも熟知しているのです。サタンが恐れているのは、すべての人々が神を信じ神に従うと、誰も自分に従わなくなるということです。だからこそ、あらゆる人や出来事や物を用いて災難をつくり出し、何が真実で何が嘘なのかわからなくなるよう人々を混乱に陥れ、真理の道を捨てさせようとするのです。これこそがサタンの邪悪な計画であり、霊的な戦いの裏に隠された真実なのです。

     今こそ人がどのような選択をするのかを見極める時です。物事の表面だけを見て、肉の欲求を満たしていくなら、サタンの策略に飲み込まれ、神を裏切ることになります。けれど、霊的な戦いの事実を見極めることができ、神への力強い願望をもち、神の側にしっかりと立ち続けたならば、そして固い信仰を持って神に従い、たとえ肉において持っているものを全て失おうとも神の要求なさることを満たすならば、サタンは手も足も出なくなります。霊的な戦いをとおして私たちが証しする一方、サタンは屈辱を受け、完敗することになります。それは神が仰ったとおりなのです。

    「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本當に神を信じることである」より)

     さて、三番目です。サタンの誘惑に直面したら、神の御言葉を守り、真理に従い神に忠実であることを固持しなくてはなりません。そうすることでサタンを撃退し、完全な屈辱と敗北を味わわせることができます。

     神の御言葉にこうあります。「人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な滋養であり、栄養であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より)「わが民よ。あなたがたは、わたしの保護と世話の中にとどまりなさい。けっして自堕落なことをしてはいけない。けっして無謀なことをしてはいけない。そうではなく、わたしの家で忠誠をささげなさい。そして、忠誠によってのみ、あなたがたは悪魔の狡猾さに対抗できるのだ。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より)

     私たちは皆、神の御言葉だけが真理であることを知っています。そして御言葉は神の性質、神がお持ちのもの、神の存在そのものを表現しており、真理はすべての実在する物事の現実であり、神の御言葉以外の理論はすべて誤信であり、サタン的な哲学であることを知っています。物事を見る上で、神の御言葉を拠り所にしてさえいれば、何が好ましいもので何がそうでないかがわかります。そうして初めてサタンの誤信や嘘を見破り、その策略に打ち勝つことができ、困難の只中に道に迷ったりサタンに騙されたりすることもなくなります。主イエスがサタンから受けた三つの誘惑は聖書に記録されています。サタンは聖書の言葉を用いてイエスに挑みました。さらにはこの世のすべての栄華を用いて誘惑したのです。けれど主イエスはどの誘惑にも神の言葉を用いてサタンの悪巧みをはねのけました。そしてサタンは屈辱と敗北を味わい逃げていったのです。このことからも神の言葉は真理であり、道であり、またいのちであり、神の御言葉はサタンを撃退するにもっとも有効な武器であることがわかります。

      終わりの日に、神は再び受肉され、裁きの働きの一歩を完了するために御言葉を発せられました。多くの兄弟姉妹が神の声を聞き、全能神が表された御言葉すべてが真理であることを見て、全能神が再臨した主イエスであると確信しました。ひとり、またひとりと、終わりの日の神の働きを受け入れていきました。この間に、兄弟姉妹の中にはまた中国共産党政府が全能神教会に対し嘘事や誹謗中傷をネット上で発信し、全能神教会を異端、つまりカルト教団として非難するのを見た人もいます。さらに、宗教界の長老や牧師による妨害や阻止に遭った兄弟姉妹もいます。彼らは全能神の言葉は聖書から逸脱している等と言い、全能神を信じることは個人を信じることと同じだとして断罪しました。このような牧師や長老はまた兄弟姉妹の家族を巻き込み、兄弟姉妹が神に向かおうとするのを邪魔しています。この深刻な霊的な戦いの中でも全能神に従い、神への忠実を維持し、神の側にしっかりと立ち続けることができた兄弟姉妹がいます。それは、この兄弟姉妹は全能神が表された言葉は全て真理であり、聖書の奥義全てを明らかにしてくれるとわかったからです。その言葉は人類を堕落から清め、サタンの影響から人を救います。そしてその言葉は聖霊が諸教会に言うことそのものなのです。だからその兄弟姉妹は全能神が終わりの日に人類を救う神の働きをなさっておられ、全能神は受肉した神であると確信したのです。つまり、もし人が全能神が発せられた御言葉が真理であり神の声だと確認できるのなら、中国共産党政府と宗教界がどれだけ多くの嘘を広めようと、混乱することはないのです。真理は真理であり、偽りは偽りです。たとえ嘘が千回語られようと嘘であることには変わりませんし、それがいつか真理になることはありません。ちょうど、主イエスが現れお働きになったとき、ユダヤ教の指導者は主イエスについてあらゆる虚偽を並べ立てたときと同じです。指導者は主イエスが聖霊による受胎によってお生まれになったことを否定し、また主イエスが神を冒涜し、悪霊のかしらベルゼブルを通して悪霊を追い出していると言い立てました。それでも、どれだけ批判や非難を受けようと主イエスはキリストであり、救い主であり、その事実は誰も否定できないものでした。そして当時、本当に主を信じた人々は、その御言葉を守り、虚偽に惑わされず、主イエスに従い続けることができたのです。まさにペテロの言葉のとおりです。

    「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネによる福音書6:68~69)

      けれどもし私たちが神の御言葉に疑念を抱いたら、神の言葉に従うことができず、神に忠実でいられなくなったなら、サタンの策略を見極める識別力がなく、確実に誘惑に負けてしまいます。さらに主の再臨を迎えることもできなくなってしまいます。このことからもわかるように、どんな霊的な戦いの中でも、神の御言葉に断固従い、神に絶対的に忠実であり続けることでしか、サタンから完全に離れ、その影響力から逃れ、神によって救われることはできないのです。

     実生活の中で、霊的な戦いはいつでも起こり得るものです。頻繁に神の前に行き祈っていなければ、霊的な戦いの真実を明確に見ることはできません。神の御言葉と真理を頼りに観察していなければ、簡単にサタンの誘惑のえじきになり、自分の証しを失ってしまいます。神の知恵はサタンの策略の上に作用します。神は厳しい霊的な戦いをとおして私たちが真理を理解し、識別力を養い、いのちの成長ができるように助けてくださいます。どんな霊的な戦いにおいても、私達が、今述べた三つの原則に沿って実践している限り、必ずサタンの誘惑に打ち勝ち、証しをすることができます。


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