神は気にかけておられるのだろうか
大きな悲しみや苦しみに心がつらくなる時、「神は気にかけておられるのだろうか」と感じることは、きっと誰にでもあると思います。
そんな気持ちを表現した賛美歌『Does Jesus Care(イエスは気にかけてくださるだろうか)』は、これまで多くの人を励ましてきました。
Does Jesus Care
英語の賛美歌ですが、1番の歌詞を訳すと、こんな感じになります。
同様に、2番は光のない道を進み、怖くてたまらない時、3番は誘惑に負けて失敗し、涙が止まらない時、4番は愛する人と死別して胸が張り裂けそうな時について歌っています。
フランク・E・グラフという人がこの歌を書いたのは、一番下の妹が34歳で亡くなった年です。彼は40歳を迎えるこの年までに、家族の3分の2を失っているので、特に4番の歌詞は彼の心の叫びだったのでしょう。
そしてグラフは、この疑問について、自らの答えを次のように表現しています。
この賛美歌は、ペテロの手紙にある次の言葉を元にして書かれたと言われています。(共同訳ではペトロと表記されます。)
「かえりみる」と訳されたギリシャ語の言葉(メレイ)には、「気にかける、心にかける、関心を持つ」という意味があります。
この同じ言葉を使って、弟子たちがイエスを責めたことがあります。
「私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」
一日中人々を助けて疲れ切ったイエスは、群衆を離れ、弟子たちと共に舟でガリラヤの海(湖)を移動したのですが、いきなり暴風が起こりました。
溺れ死ぬと思った弟子たちが大慌てしている中、イエスは眠っておられます。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言ったのです。
この「かまわない」という言葉は、先ほどのメレイに否定語が加わっていて、「気にならない、何とも思わない、関心がない」という意味になります。
その後、イエスは嵐を静まらせて、弟子たちに「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」と言われました。(マルコ4:35-41)
このことから、イエスは彼らのことが気にならなかったのではなく、天の父が守ってくださると信じていたのであり、弟子たちは恐れと不信仰によって、父やイエスが気にかけてくださっているという事実が見えなくなっていただけであることがわかります。
このエピソードはマタイとルカの福音書にも出てくるのですが、そちらでは、弟子たちが「私たちは死にそうです」と言うだけで、「おかまいにならないのですか」という言葉は記されていません。(マタイ8:25、ルカ8:24)
マルコの福音書は、使徒ペテロから聞いた話をまとめたものと言われているので、ペテロは自分たちのように「イエスは私のことを気にかけておられるのだろうか」と疑問を持つ読者のため、この言葉を記録してほしかったのかもしれません。さらに、ペテロはよくイエスにそのような話し方をしていたので、それは彼自身の言葉だった可能性もあります。
ペテロが先ほどの手紙の中で、神が心にかけていてくださるのだから、思い煩いを神にゆだねなさいと言ったのは、そのような数多くの経験に裏打ちされたものなのでしょう。
神は、あなたのことを心にかけていてくださる
神が私たちを心にかけていてくださることの究極の現れは、イエスが私たちの罪のために自らを犠牲にしてくださったことですが、福音書にあるイエスの他のさまざまな言動からも、神が私たちをどれだけ心にかけておられるかがわかります。
もちろん、良好な関係は一方通行のものではなく、私たちの方からも、神を心にかけていることを示すことができます。祈り、賛美し、聖書を読み、読んだことを実行するといったことです。
そうやって神との関係を深めていくことによって、神への信頼が強まり、神はどんな時にも自分のことを心にかけていてくださるという信仰が育ちます。ちょうど、ペテロや他の弟子たち、そしてフランク・E・グラフの場合のように。
あなたの人生の海が荒れ、風が吹きすさぶ時には、ガリラヤの海で弟子たちと一緒に舟に乗っておられた主が、あなたの舟にも乗っていて、あなたのことを心にかけていてくださることを思い出してください。
(日本語でも、同じ曲を使用した『神なく望みなく』という賛美歌がありますが、歌詞は異なっています。)