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希望を与える傷痕
「生まれ変わったら、どんな身体になりたいか」という、アンケート結果をまとめた記事を読んだことがあります。
スタイルがいい、脚がきれい、立派な筋肉、ハリのある肌など、それぞれの回答者が思い描く、完璧な「理想のボディ」がリストアップされていました。当然ながら、傷のある身体が欲しいという人は一人もいません。
さて、イエス・キリストが復活された時、それは単に息を吹き返したわけではなく、もはや死ぬことのない、新しい身体に変わっていたので、すべてを完璧な状態にすることもできたでしょう。
しかし、イエスは、十字架刑による傷痕をそのまま残すことを選ばれました。いくつかの理由から、それがイエスにとっての「理想」の身体だったようです。
その傷痕は、イエスが復活して弟子たちに現れたという証明
マグダラのマリアや他の女性たちから、イエスは復活されたと聞かされても、「使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」とルカは記しています。(ルカ24:11)
そんな彼らのもとに、イエスが「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ」と言って現れたことで、使徒たちはイエスが確かに復活されたことを知りました。
手と足の釘あとを見て、「まさしくイエスだ」と理解し、魚を食べる姿を見て、イエスは幽霊ではなく生きておられるとわかったのです。(ルカ24:39-43)
ルカは「手と足」としか書いていませんが、使徒ヨハネは、イエスが彼らに脇腹も見せてくださったことを記しています。(ヨハネ20:19-20、24-27)
十字架にかけられた3人のうち、ただイエスの脇腹だけに、ローマ兵のやりが突き刺されたことを、ヨハネは目撃していました。(ヨハネ19:31-35)
その様子を見た唯一の使徒として、脇腹の傷についてのこの証言を残しておきたかったのでしょう。
このように、手足と脇腹にあった傷痕は、弟子たちにそれがイエスであると証明する上で大切なものでしたが、それ以上の意味があるように思えます。
その傷痕は、十字架での犠牲と罪の赦しの象徴
手話で「イエス」と言いたい時には、手のひらに指を立てることで、傷痕を表現します。その傷痕は、イエスの特徴であり、アイデンティティなのです。
それは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死ぬほど、イエスが私たちを愛してくださったしるしです。
わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
この聖句で「傷」と訳された言葉は、十字架にかかる前にすでに負っていた、むちによる打ち傷を指しています。イエスは、なんと多くの傷を与えられたことでしょう。
その傷痕は、私たちに希望を与える
イエスが使徒たちの前に現れた時、傷があったのは、イエスだけではありません。使徒たちも、皆、傷を負っていました。イエスが捕らえられた時に、自分たちだけ逃げた、イエスを裏切り、否定した、という後悔の傷です。
そして、私たち誰もが、身体にであれ、心にであれ、何らかの傷を抱えて生きています。たった今、次から次へと傷を受けているように感じる人もいることでしょう。
そんな私たちに、傷痕をつけたまま復活されたイエスは寄り添い、私たちの痛みを理解してくださいます。
そして、たとえ私たちの傷が消えることなく、傷痕をつけたままであったとしても、イエスが復活された時のように、いつか大きな喜びを味わうことができるという希望があります。
今年は、4月9日が、イエスの復活を記念するイースター(復活祭)です。このイースターが、皆さんにとって希望と癒やしの時となりますように。
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。
私はイエスの傷痕に希望を持っている。天国から見れば、イエスの傷痕はこの宇宙の歴史の中でかつて起きた出来事の中でも最も恐ろしい出来事を代表している。しかし、十字架刑というその出来事さえ、イースターは思い出に変えたのだ。イースターがあるので、私たちの流す涙も、受ける打撃や心の痛み、亡くした友人や愛する者たちを思う胸の痛みすべても、いつかイエスの傷痕のように思い出になる。そんな希望を持つことができるのだ。