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大岡裁き(そして母親のような神)
昨日(母の日)、電話で母とおしゃべりをしました。
プレゼントも無事に届き、喜んでくれて良かったです。
母親って、他の人には代わることのできない特別な存在ですよね。
ふと、大岡政談(大岡裁き)のことを思い出しました。
時代劇でもおなじみの大岡越前守忠相(おおおか えちぜんのかみ ただすけ)の裁判記録風の物語のことで、その中に子ども争いについてのエピソードがあります。
先妻(実母)の生んだ子を、後妻(継母)が自分の子だと主張するのですが、どちらも譲らないので、大岡は二人に、その子の手を両方からそれぞれ引っ張るよう命じました。
最後まで子どもの手を掴んでいた方を親と認めるということでしたが、子どもが痛がって泣き出したので、それを見た先妻はすぐに手を離します。
すると大岡は、「実の親なら、子どもが痛がっているのを見て、引っ張り続けることはできない」と、先妻を子どもの母親と認めたという話です。
この話は実話ではなく、中国の『棠陰比事』にある話を翻案したものですが、それをさらにさかのぼると、聖書にあるソロモンの裁判にルーツがあるとされています。
そこで、その話を久しぶりに読んでみました。(列王記上3:16-28)
ソロモン王は、子どもの手を引っ張らせるのではなく、「生きている子を二つに分けて、半分ずつ、それぞれの女に与えよ」と言いました。
もちろん、そうするつもりはなく、女たちの反応を見るためです。
すると本当の母親は、子どもを殺さずにもうひとりの女にあげてほしいと言います。
わが子を手放すのは、心が張り裂けそうになるほどの苦しい決断だったに違いありませんが、子どもの命には代えられません。
一方、嘘を言っている女は、王の言うとおり子どもを半分に分けてほしいと言いました。
それを見て、ソロモンはどちらが本当の母親なのかを見抜き、「初めの女が母親だ。その子を殺さず、彼女に与えよ」と命じたのです。
最近では悲しいことに、大岡裁きやソロモンの話に登場する実母ではない方の女のように、子どもを大切にしない母親の話をよく耳にします。
そのたびに、私は神が言われたこの言葉を思い出すのです。
女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。(イザヤ49:15 新改訳2017)
神は、私たちの母親のように、あるいはそれ以上に、私たちを愛し、あわれみの心でいつくしみ、いつも私たちのことを考えていてくださいます。
神といえば「男」「父親」のイメージが強いかもしれませんが、神は人間ではなく性別もありません。
父親というのは比喩であり、聖書では、このイザヤ書の言葉のように、神が母親のイメージでも描かれています。(申命記32:18、イザヤ42:14、マタイ23:37も参照)
こうして、今年の母の日は、自分の母について、また母親全般について、そして母親のような存在である神について、色々と考え、また感謝する日となりました。