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愛の賛歌(第1コリント13章)
バレンタインデーと言えば「愛の日」なので、今日は愛について書きたいと思います。
特に、「愛の章」や「愛の賛歌」と呼ばれている、コリント人への第1の手紙13章についてです。
愛の賛歌
この章は、イギリスのダイアナ元妃の葬儀で、ブレア首相が弔事として読み上げたことでも知られています。
また、日本でも、キリスト教式の結婚式で次の箇所がよく朗読されます。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
簡潔ながら力強く、心に染み入る言葉ですね。
愛は神の本質
聖書には、「神は愛である」と書かれています。(1ヨハネ4:8,16)
つまり、愛は神の本質だということです。
愛と言っても、さまざまな現れ方や側面がありますが、新約聖書では、神の人間に対する愛や、私たちが神や他の人たちに対して抱くべき愛を表現するために「アガペー」というギリシャ語がよく使われています。
それは、無私で無償の愛であり、第1コリント13章にある「愛」も、やはり「アガペー」です。
神はアガペーであり、アガペーの愛で私たちを愛してくださっていますが、私たちもまた同じように、アガペーの愛で愛し合いなさいとイエスは言われました。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
愛は行動
13章4-7節で愛を説明する15の言葉は、名詞でも形容詞でもなく、すべてが動詞です。
最初の2つ、「寛容であり、情深い」も、「寛容に振る舞い、情け深く行動する」という意味になります。
つまり、愛はただの感情や気持ちではなく、行動であり、この愛の賛歌は、ただ愛をたたえているのではなく、行動を促しているわけです。
それを念頭にもう一度読んでいただきたいのですが、普段読んでいるものとは違う翻訳で読むと、また別の発見があるかもしれません。
「愛」を他の言葉に置き換える
4-7節は「愛」を主語としていますが、この愛の賛歌をさらに深く理解するため、「愛」を「主イエス」に置き換えて読んでみてください。
[主イエス]は忍耐強い。[主]は情け深い。ねたまない。[主]は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
何の違和感もなく、確信をもって大きな声で宣言できるほど、主イエスの愛が見事に表現されています。
次に、「愛」を自分の名前に置き換えて読んでみてください。(ここでは、「私」としておきます。)
[私]は寛容であり、[私]は親切です。また人をねたみません。[私]は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
今回は、確信がなくなり、むしろ恥ずかしい気持ちになってきます。
「私にはそんな愛がない」と、あきらめたくなったり、「やはり愛なんてきれいごとだ」と、完全に無視したくなったりするかもしれません。
でも、結論はそういうことではなく、この愛に生きるためには、「私」が主語となって「私」の力でやろうとしてはいけないということなのです。
あくまでも「愛」が主語であるし、その愛は神の賜物であり、神の力です。
わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
私たちは、完全に愛情深い人間になれるわけではありませんが、それでも、聖霊によって愛を注いでいただき、その愛が私たちの人生に現れるよう、「愛を追い求め」て(1コリント14:1)、神の愛の器となることができます。
わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。