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神に見捨てられたように感じる時

「神に見捨てられた」と感じることはあるでしょうか。辛いことが続き、神がいつまでたっても祈りに答えて助けてくださらないように思える時です。

最近、何人かの知人が大変辛い時期にあることを耳にしました。「神に見捨てられた」とまでいかなくても、かなり苦しく感じているのは確かだと思います。

「あなたの傷は海のように大きい。だれがあなたをいやすことができよう」という言葉が旧約聖書の哀歌にありますが(2:13)、神にはその力があるので、それぞれの人生に触れて癒やしてくださるよう祈るばかりです。

預言者エレミヤの作と言われる哀歌は、その名のとおり悲しみの歌であり、バビロン捕囚(バビロニア地方への強制移住)や国の滅亡といった悲惨な状況を嘆く言葉がつづられています。

そんな苦しみのさなか、第3章には、まるで暗闇に差す一筋の光のように、希望の言葉が散りばめられているので、読むたびに私の心を励ましてくれます。

そのいくつかを紹介したいと思いますが、まず、エレミヤの嘆きから。(今回の記事で引用する聖書の言葉は、すべて新改訳第3版からです。)

私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、私の道を切り石で囲み、私の通り道をふさいだ。
(哀歌3:8-9)

そんなふうに感じていたエレミヤでしたが、大事なことを思い出します。

「主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。
(哀歌3:24-25)

彼にとっていちばん大切なのは、どんなに多くの祝福よりも、主ご自身がいることでした。

別の言い方をするなら、大変な問題に囲まれていても、主が共にいてくださるなら、それは彼にとって十二分だということです。

主をそのように見る人は、どれだけ大変な状況にあっても、主はいつくしみ深い方であり、主を待ち望む人を支え、助け、励まし、慰めてくださることを知ります。

主の救いを黙って待つのは良い。
(哀歌3:26)

ぶつぶつ不平を言ったり、思い煩ったり、あるいは自分の力でなんとかしようと動き回ったりするほうが、神の助けをじっと待つよりも簡単です。

私たちの見えないところで、神が必要な働きをしておられると信頼して待つのは難しい時もありますが、とても大切なことだと思います。

私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、「恐れるな」と仰せられました。
(哀歌3:57)

状況だけに目を留めると、神から見捨てられたように感じてしまうこともありますが、神が近くにいてくださるとわかれば、恐れは消えていきます。

主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
(哀歌3:31-32)
それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
(哀歌3:24-25)

どんな時にも、決して私たちから離れず、私たちを見捨てることのない誠実な愛があります。

神に忘れられたように感じる時は、手のひらに私たちを刻むほど、私たちのことが大好きで、いつも気にかけてくださる神の愛に信頼して、希望を持ち続けることができますように。

シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」
(イザヤ49:14-16)

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