見出し画像

神を知ること

先日、友人と話していて、好きなミュージシャンは誰かという話になりました。好みは人それぞれだし、好きな理由もさまざまでしょう。曲や歌詞が好きだったり、パフォーマンスが好きだったり、あるいは、声がタイプという人もいるかもしれません。

また、人柄を知って好きになる場合もあることでしょう。最初は無関心だったけれど、何かのきっかけでその人の人柄を知り、ミュージシャンとしてのその人も好きになることが。

いったん好きになると、その人や作品にもっと興味が湧いてきて、さまざまな曲を聞いているうちに、さらにもっと好きになる・・きっと、多くの人にそのような経験があると思います。

ふと、聖書や神にも同じことが言えるなと思いました。日本では、聖書に関心を持たない人がほとんどかもしれません。聖書の言葉を、単にすてきな名言として捉える人もいます。でも、聖書の「著者の人柄」を知った人は、聖書が著者の愛の詰まったラブレターであることに気づきます。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」ている(2テモテ3:16 新共同訳)とあるように、聖書は数多くの人の手によって執筆されたけれど、彼らを導いて書かせた真の著者は神です。そして、神は私たちが神とその性質を知ることを望んでいます。

誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる。

(エレミヤ9:24)

私は、いつくしみ(決して変わることのない愛と恵み)と公平と正義、その他の「著者の人柄」(神の性質)を知るにつれ、ますます神と聖書を好きになり、もっと深く知りたくなりました。

ところで、自分の頭の中で、神はこのような方だ、こうあるべきだ、といくら考えても、神を知ることはできません。神は私たちの頭で完全に理解できるほどちっぽけな方ではないからです。

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。

(1コリント1:21 新共同訳)

では、どのように神を知るのかというと、まず聖書を読むことです。特に福音書を何度も読み返して、イエス・キリストがどんな方であったかを知るといいでしょう。なぜなら、イエスは「神の本質の真の姿」を現しており、イエス自身も「わたしを見た者は、父を見たのである」と言われたからです。(ヘブル1:3ヨハネ14:9

そうやって聖書を読み、読んだ内容について考えるうちに、私たちはより深く神を知るようになります。そして、自分が読んできた聖書の言葉を生活の中で実践するなら、それは私たちが神を知っているというしるしです。

もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。

(1ヨハネ2:3 新改訳2017)

そして、試練の最中であれ、普段の時であれ、祈って神に話しかけ、神の声を聞くことによって、また、神に私たちの人生に関わっていただくことによっても、神をより深く知るようになります。どんな人間関係でも、一緒に時間を過ごし、語り合い、何かを共に経験することで、相手のことをよりよく知れるのと同じです。

そうなると、「知っている」の意味が、単にファンとしてミュージシャンや著者を知っているといったことではなく、特別の友人のように「親しい付き合いがある」という意味に変わります。神とそのような関係を築くにつれ、神は私たちの人生に多くの喜びと祝福をもたらす存在であることがわかるでしょう。

もっともっと、神を知りたくありませんか。

我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。

(ホセア6:3 新共同訳)

私たちは何のために造られたのか。神を知るためだ。
私たちは人生においてどんな目標を掲げるべきか。神を知ることだ。
人生における最良のことであり、他の何よりも喜びや楽しさ、満足感をもたらすものは何か。神を知っていることだ。

(J・I・パッカー)



いいなと思ったら応援しよう!