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どちらもペテロ(2)

マタイ26章でイエスが、自分はまもなく捕らえられて弟子たちは散っていくと預言された時、かなり勇ましい決意を宣言した弟子がいます。(▲▲は弟子の名前)

▲▲は言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」(マタイ26:35)

その後、イエスが実際に捕らえられ、連れて行かれた先に入り込んだある弟子は、自分もイエスの仲間だろうと言われて、それを3度も激しく否定しました。

▲▲は、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。(マタイ26:74 新改訳2017)

イエスを知らないとは死んでも言わないと宣言した弟子、そして、誓って知らないと3度も全否定した弟子、どちらもペテロです。

ルカの福音書には、3度目の否認の直後、イエスとペテロの目が合ったことが書かれています。

主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。(ルカ22:61)

イエスは何を思ってペテロを見つめたのでしょうか。

「あんな宣言までしておいて、結局は私を知らないと言うんだね。がっかりだ」ということでしょうか。

いえ、イエスはそうなることを初めからご存知だったのです。

ペテロがイエスを知らないと3度否定するという預言と共に、イエスはこう語っておられました。

「シモン、シモン[ペテロの本名]、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)

その数時間後、3度の否認をしたペテロを見つめながら、イエスはこう考えておられたのではないでしょうか。

「ペテロ、あきらめないで。誰にでも失敗はあるし、弱さを知ってこそ、人を力づけられるようになる。大切なのは、失敗した後にどうするかということだ。ペテロならきっと立ち直れると信じているよ。」

私たちがどれだけ誠実でやる気があっても、いざという時に行動が伴わないことはあるし、どんなに強い人にも弱さはあるものです。

私たちのそんな弱さを、イエスは私たち以上にご存知であり、完璧は期待されません。

ペテロの宣言と否認の間に起きた、こんなエピソードもあります。

イエスは祈るために、ペテロと他の2人の弟子だけを連れてゲツセマネというところへ行かれましたが、弟子たちは眠り込んでしまいました。

[イエスが]弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。・・心は熱しているが、肉体が弱いのである。」(マタイ26:40-41)

ペテロと並んで初代教会の発展に尽くしたパウロも、このように書いています。

わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。(ローマ7:18)

ペテロもパウロも、自分の弱さを知り、どれだけ神が必要であるかを自覚しました。

だからこそ、神の力に頼ることを学び、偉業を成し遂げることができたのです。

強いペテロと弱いペテロ、どちらもペテロであり、私たち全員もその両面を持っています。

それなのに、強さが発揮できたからと、偉そうに自分を誇っても、虚しいものです。

逆に、弱さが露呈した時には落胆しすぎることなく、パウロのこの言葉を覚えていましょう。

主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」 それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(2コリント12:9)



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