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倒れては起き上がり続ける人生
友人が、最近読んだという新聞のコラムについて教えてくれました。
このコラムには、「人の身体は、転ばないようにではなく、うまく転ぶように作られていく」という言葉が紹介されており、さらに、「柔道でまずは受け身を習うように、感情を豊かで安定したものにするにも『感情の受け身』を習得することが大切だ」と書かれているそうです。
友人はそれを信仰生活に当てはめ、信仰を強く持つこととは、感情の受け身がうまくできており、かつ倒れたままではいないということなのだろうと話していました。
私は後でそのことについて考えていて、三浦綾子さんの、こんな言葉を思い出しました。
一生に一度も転んだことのない人はいない。転べば立ち上がればいいのだ。
私たちはこの人生を送っていく内に、「感情の受け身」の仕方を学びながら、転んでは立ち、倒れては起き上がり、そうして前へ、前へと進んでいくのでしょう。
今回は、転び、倒れることに関する聖書の言葉を紹介したいと思います。
強い人だって倒れることがある
年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
壮年と言えば、身も心も元気盛んな年頃であり、他の日本語訳聖書では「若い男」や「勇士」とも訳されています。
必ずしも自分が弱い人間だからではなく、強い人だって、転び、倒れることはあります。
ちなみに、この節は、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(31節)と続きます。
倒れた時、主が支えてくださる
主は倒れようとする人をひとりひとり支え うずくまっている人を起こしてくださいます。
その人は転んでも 倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。
倒れたなら、起き上がればいい
主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。
神に従う人は七度倒れても起き上がる。
主の支えで起き上がる
しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。
友だちの支えで起き上がる
ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。
あなたの言葉は倒れる人を起こし くずおれる膝に力を与えたものだった。
ヨブ4:4 新共同訳)
ヨブの人柄を言い表した言葉ですが、残念ながら、エリパズ自身はヨブに対してそのような友人にはならず、多くの試練で倒れていたヨブを責め続け、いっそう辛い気持ちにさせてしまいました。
友だちの支えは当てにできないこともありますが、私たちの最高の友であるイエスは、私たちの気持ちをよく理解して、必ず助け、支えてくださいます。(ヨハネ15:15、ヘブル2:18)
復活!
挫折や絶望から立ち直ることを「復活」と表現することがありますが、聖書でも、「復活する(よみがえる)」という言葉の本来の意味は「起きる」「立ち上がる」です。
もっと正確に言えば、「起こされる」という受動態になっていることが多いので、自分の力で「復活する」のではなく、神の力で「復活させられる」ということになります。
ですから、自分には立ち直る力がないと思っても大丈夫です。主がすぐそばにいて、私たちを助け起こしてくださいます。
イエスは何度か、すでに息を引き取った人たちに「起きなさい」と言われました。
そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。
この少女はすでに死んでおり、起き上がる力など何もなかったのに、イエスの言葉どおりに起き上がり、生き返ることができました。
主が「起きなさい」と言われる時、その言葉自体に力があるので、私たちに力がなくても、起き上がることができるのです。
転び、倒れ、自分の力では起き上がれないように思えても、主が良しとされる時に、再び起き上がる力が与えられると信じましょう。